bye2bigbrother’s blog

ドキュメンタリー作品の感想を書くブログ

第1作目 原一男 監督作品『ゆきゆきて、神軍』

ドキュメンタリー作品の感想だけを書くブログを始めます。

邦洋問わず、また映画かテレビ番組かも問わず、「ドキュメンタリー映像」という枠組みであれば何でもあり。

トップバッターを飾る作品は、やはり『ゆきゆきて、神軍』 しかないだろう。

 

ゆきゆきて、神軍 [DVD]

ゆきゆきて、神軍 [DVD]

 

 

 1987年に公開された『ゆきゆきて、神軍』は、アナーキスト奥崎謙三がかつて所属していた部隊で終戦直後に隊長による部下の射殺事件があったと知り、当時の隊員たちを訪ねて追及するうちに真相に近づいていく様子を追ったドキュメンタリーだ。

奥崎は射殺事件に関わった当時の上官たちを執拗に問い詰め、ときには殴り合いの喧嘩になりながら、衝撃的な証言を引き出していく。

終戦後にも関わらず2人の脱走兵を軍の命令で処刑し、「命令は絶対だった」といまも責任をなすりつけあう姿は、「無責任の体系」のもとで思考停止していた日本軍の実情と、戦争責任が宙に浮いたまま平和を謳歌するグロテスクな戦後の矛盾を暴き出している。本作は昭和天皇対する強烈な批判やカニバリズムの告白など過激な内容にも関わらず大ヒットを記録し、日本映画監督協会新人賞、ベルリン国際映画祭カリガリ映画賞など国内外から多数の賞を受賞した。

 

しかし、この作品は「戦争映画」を目指して撮られたものではない。

奥崎謙三という1人の強烈なアナーキストの生き様を伝えるために作られたドキュメンタリーである。

だからこそ、いまもアクチュアルな戦争映画として普遍的であり続けている。

 

戦争ではなく、奥崎謙三を描く

 

実はこのドキュメンタリーは、奥崎謙三のいわゆる「持ち込み企画」である。

当時、すでに映画監督として名を馳せていた今村昌平監督に、奥崎が「自分を撮ってくれ」と頼んだが、今村はそれを後輩の原一男に押しつけた。(今村は企画として参加)

奥崎はすでに昭和天皇パチンコ狙撃事件や皇室ポルノビラ事件を起こした強烈な思想犯として知られており、公開禁止を含め作品が失敗に終わる可能性は十分にありえる。普通に考えて敬遠するところだろう。

しかしDVDに付属する制作メモによると、原はとりあえず奥崎に会うことにしたが、その人懐こい笑顔にころりとやられ、すぐに撮ることを決意したという。あるインタビューでは、「奥崎さんが新興宗教をつくろうとしているというので、最後は奥崎さんが神になるという笑いありの構成にしようと思った」とも述べている。

原は奥崎の政治思想に同調したから撮ったわけではない。

あくまで、この奥崎謙三という男の面白さに惹かれてカメラを回すことにしたのだ。

 

そのためか、作品からは戦争に対する監督の思想や立ち位置がまったく見えてこない。

客観的とも異なる。傍観者という言葉が一番しっくりくる。

カメラは親しみやすく笑ったり激高したりと、ころころ変わる奥崎の豊かな表情を丁寧に捉え、その印象はどこかコミカルですらある。

なぜなら、この作品のテーマは「戦争」ではなく、「奥崎」だからだ。

象徴的なのは、奥崎が相手に殴りかかり、逆に返り討ちにされて袋だたきに遭うシーンだ。奥崎がカメラを回す原に助けを求めるなか、フィルムは回り続けている。

原の師匠にあたる田原総一朗は、このシーンを評して「彼はインテリではない。頭ではなく体で撮る男だ」と述べている。

そう、原は本能の赴くまま、目の前で奥崎が繰り広げる情況をフィルムに収めることだけにこだわった。

原は殴り合いの喧嘩に対して、どちらにも加勢する「政治的な」理由もなかったのだ。

その漂白された原の目線が、激高する奥崎と後悔に苛まれ狼狽する元隊員のどちらにも肩入れすることのない、宙づりされた立ち位置を作品に与えている。

原による好奇(悪意?)に満ちたカメラは、あらゆる政治的な補助線を作品から廃して、情況を情況のまま提示することに成功した。

それがこの作品に、戦争の悲劇と矛盾を露悪的なまでに純粋な形で抉り出す力を与えたと言える。安全圏からお決まりの反戦平和を謳う説教じみた戦争映画とは一線を画し、戦争の記憶から逃れられない哀れな老人たちの葛藤する姿に観客は親しみと同情すら覚える。

ちなみに、原が完成した作品を奥崎に見せたところ、「まったくおもしろくありません」と感想を述べたという。

それは、原が奥崎というモンスターに振り回されながらも、いち傍観者として、ドキュメンタリストとしての矜持を保ち作品を撮り切ったことの証左だろう。

 

カメラの暴力性

 

先ほど、原は情況に介入しない傍観者だと書いた。

矛盾するようだが、この作品はカメラの存在なしには成立しなかった作品である。

本作品におけるカメラは「顔の見えない傍観者」として、出演者の1人とも言えるのだ。

 

本作では、奥崎が元隊員達をインタビュー(というより詰問)するのを原があくまで傍観者として撮影している、という構成だ。

にも関わらず、作品中には元隊員やその家族がカメラを意識するシーンが、意図的に配置されている。(例えば元隊長の家族が、撮影する原に向かってスチールカメラを向けるという象徴的なシーンがある)

元隊員たちは、カメラの前で戦時中の部下射殺事件について語ることを、明らかにためらっている。カメラがなければ、奥崎はもう少し簡単に口を割らせることができたかもしれない。しかし、奥崎は元隊員たちに、「何もやましいことがなければカメラの前で話せるだろう」と迫る。

 

果たして自分はカメラの前で真相を話せるのだろうか。その迷いや苦悩のプロセスを、そのカメラ自身が捉えている。カメラがあるという情況が、元隊員たちの告白に緊張感を持たせ、歴史が明かされる重みを作品に与えている。

ありのままの事実を伝えるという建前のドキュメンタリーにおいて、カメラを意識させることはタブーとも言える。しかしこの作品は、カメラの前でしか起きえないことを撮ることで成立するという意味で、極めてラディカルなドキュメンタリー作品である。

繰り返すが、本作品は奥崎の「持ち込み企画」だ。

原は政治的には介入しなかった。しかし、好むと好まざるとに関わらず情況に介入してしまうというカメラの暴力性を熟知していた。カメラと取材対象者の関係性は、原一男のキャリアで一貫したテーマでもある。

奥崎と原はドキュメンタリーにおけるカメラの暴力性を逆手に取ることで、確信犯的に元隊員たちの告白の舞台を演出したのである。

 

誰も撮れないものを撮る

 

優れたドキュメンタリーというのは、単純に「誰も撮れないものを撮る」ということだと改めて感じさせられる。 その一点だけでも、本作は他の追随を許さない。

 

とても記憶に残るシーンがある。

冒頭とラストに2回挿入される、戦没者の墓の前にたたずむ奥崎の表情を離れた位置からズームで捉えたカットだ。その表情は深い悲しみと絶望を通り越し、ただただ穏やかだった。

 

あるインタビューで、原は奥崎について「彼は演技という感覚を常に持っていた」と語っている。それは彼の思想や行動が実効性のないアジテーションに留まることや、本作が「持ち込み企画」であることを考えれば当たり前とも言える。

 

ただ、墓前でたたずむ奥崎の表情は、演技ではなかった。

ストイックなまでに道化を演じることで戯画的に戦争責任を追及し続ける奥崎が、ふと我に返る瞬間。

原のカメラは確かに、奥崎を捉えていた。

ブレードランナー2049の感想

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 

カルト的な人気を博した映画「ブレードランナー」の原作としても知られるこの小説は、フィリップ・K・ディックが1968年に上梓したSF小説の金字塔である。

 

しかし(これはSFというジャンルの宿命として)、不朽の名作ではない。

 

「アンドロイドと人間を隔てるものはなにか?」というSF作品におけるラディカルで普遍的なテーマは、科学技術の進歩とともに拡散と発展を遂げた。

人工知能や身体論、ネットワーク論、サイバースペース論などの各領域で研究が進んだ結果、より専門的かつ先鋭的な想像力を持つ作品が次々と現れるようになった。

もはや「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は過去の遺物になってしまったのか・・・。

 

しかし、作品の舞台となった2019年が目前に迫る2017年になっても、アンドロイドと共存する未来は見通せない。

 

そんなおり、「ブレードランナー2049」が公開された。

はじめに感想を述べると、まさに「アンドロイドと人間を隔てるものはなにか?」という前作のラディカルで普遍的なテーマを極めて正しくアップデートした秀作と言える。

 

以下はネタバレを含む。

 

今作の主人公は、新型アンドロイドの警察官「K」。かつて感情が芽生えてしまうというバグにより反乱を起こした旧型アンドロイドを処分する仕事を遂行する中で、出産の形跡がある女性型アンドロイドの遺骨を発見する。さらに、遺骨のそばに記された「子ども」の生年月日とおぼしき日付は、他人から移植されたと思い込んでいたKの幼少期の記憶にある日付と一致していた。

表では警察官として人間の存在を脅かすアンドロイドの「子ども」の処分を命じられながらも、自分こそが人間と同じように胎内から生まれた「子ども」なのではないか?と疑いながら、Kは自分の記憶や出生のルーツを探る旅に出る。そのなかで自分が「子ども」であることの証拠が次々に見つかり、アンドロイドとしての自我が揺らぎはじめるK。そしてついに隠遁生活を送っていた父親と再開を果たし、自分こそがその「子ども」だと確信しつつあったとき、すべては勘違いであり、自分はただのアンドロイドに過ぎないという現実を突きつけられる。

しかし、Kは徒労感と絶望感に打ちひしがれたあと、アンドロイドを製造するウォレス社に拉致された、かつて父親だと信じていた男を命がけで救出する。男を本当の娘のもとに送り届けたあと、Kこと「ジョー」は、まさに人間らしく大義のために死んでいった。

 ◇

 

「人間らしさ」とは出生の経緯などとは関係なく、人間らしくあろうとする信念にこそ宿るのだという力強いメッセージは、「人間とは?」という問題提起に留まっていた前作のテーマを大きく更新する内容だと言えよう。

そしてこのメッセージは来たるべきアンドロイドだけでなく、いま世界の紛争地帯で幼い腕に銃を持たされ、あらかじめ人間性を奪われている子ども達の未来にも向けられているのかもしれない。

 

ところで、今作は「記憶」が重要なキーワードになっている。

主人公のKは幼少期の記憶に突き動かされて出生の秘密を探っていくが、結果的にその記憶は他人のものだった。しかし、偽の記憶を頼りに取り戻した幼少期の玩具を大切そうに握りしめたあと、父親だと思っていた男に渡すラストシーンは印象的だ。

アンドロイドと記憶というのもSFにおける古くて新しいテーマではあるが、ことしは偶然にも記憶をテーマに執筆を続ける小説家、カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞した年でもあることを鑑賞中ふと思い出した。

 

記憶とはなにか。そして、アンドロイドにとって、記憶とデータベースの違いとはなにかを、改めて考えさせられる作品でもある。

 

 

そして、これだけは言いたいのだが、ジョイ役のアナ・デ・アルマスさんが死ぬほどかわいい。

そして、間違いなくこの作品のハイライトは、ジョーとジョイのラブシーンである。AR時代のセックスの新しい形を提示する、小説では為しえない素晴らしい映像になっている。

鈴木敏夫について

 

たまに思い出したように「鈴木敏夫ジブリ汗まみれ」をまとめてPodcastで聞く。

その度に鈴木敏夫という男の魅力に惹きこまれ、自分の仕事人としての理想形はこの人なのかもしれないと思う。

 

おそらく、僕は鈴木さんの「知識の使い方」に惹かれている。

 

ラジオを聞けば分かるが、鈴木さんは好奇心の塊のような人で、「博覧強記」という言葉が相応しい。あらゆるジャンルの一線で活躍する対談相手たちと互角に渡り合う。

 

また、驚くのはその記憶力だ、

口癖の「忘れもしない」から始まる「宮さん」こと宮崎駿との微笑ましい(ときに凄まじい)エピソードトークは、そのまま文字起こししたら本にできるくらい細かくディティールが語られる。

 

そして、鈴木さんはその頭脳に詰め込んだ知識を自分の経験に引きつけて、自分の言葉として話すことができる。

 

小難しい話は一切なし。鈴木さんがなにかの本で読んだ内容をトークで引用するときも、いい意味で大雑把にまとめて、厳密には違うのかもしれないけれど「自分はこう解釈した」ということを堂々と話す。

 

生きている言葉を話す人だなぁ、物事を現場で考える人だなぁと感じる。

語り口が本当にいいのだ。借りてきた言葉を並べるだけの人間とは説得力が違う。

 

知識は使いこなさなければならない。

なるべく本を読むようにしているが、活字を目で追うことばかりが目的になっているような気もして、悩んでいたところだった。

 

鈴木さんの話を聞くたびに、自分の頭で考えなければと襟を正されるのだ。

事実の強さ

森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』を読んだ。

きっかけは、ことし8月にあった「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶でのある事件。

 

出演者の1人が、AV女優との絡みや好きな人への告白を強要されたという撮影の裏側を告発し、舞台上で股間を丸出しにして監督に口淫を迫ったのだ。

まだどこかに当時の動画がアップロードされているかもしれない。

また、この告発内容については、実は作品が公開されてから間もなく、本人がブログに書いている。

土下座100時間:世界で一番やさしいゲロ - livedoor Blog(ブログ)

 

実際に強要があったのかどうかは僕に知る由もないし、そもそも僕は「童貞。」を観ていないので何も語る資格はないのかもしれない。

それでも、僕が想像するに出演者が強要されたというシーンは作品の根幹に関わる重要なパートではないかと思う。女性を過度に理想化して「AV女優は汚らわしい」と思うのはいかにも童貞らしいし、そんな童貞が自分の意志で殻を破り告白するからこそ、みんな感動したのではないか。それが、出演者自身によって「別に女性が汚らわしいと思ってない」とか「無理矢理告白させられた」とか告発されてしまったら、ファンは興ざめするか怒るかするだろうなぁと、外野からぼんやり炎上騒ぎを眺めて思っていたのだ。

 

しかし、実際のTwitterの反応は違った。やれ「この事件はドキュメンタリーがもつ暴力性を浮き彫りにした」だの「これは童貞。をプロデュースの延長としてのドキュメンタリーである」だの、訳知り顔で語っている人が多い。なんとなく言わんとしていることはわかるし、「童貞。をプロデュース」を観るような層はドキュメンタリーをたしなむ教養があるのかもしれないが、一体これはどういうことかと思っていると、以下のブログを見つけた

「童貞。をプロデュースの現実」vs.「加賀賢三氏の現実」はあり得ない - web版:ラッパー宣言(仮)

 

この記事では、「童貞。」の松江監督が森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』の主題を念頭に作品をつくっていると指摘している。

そこで『ドキュ嘘』に興味が惹かれて読んでみたわけだが、自分のドキュメンタリー観が覆されるエキサイティングな読書体験だった。

僕は、ドキュメンタリーは多少の演出はあれど原則「客観的事実」の集合で作られていると思っていた。つまり監督はなるべく被写体や状況に干渉せず、あるがままの事実を記録していくのだと。しかし筆者の森達也はその考えを強く否定する。ドキュメンタリーは事実のある側面を、監督が演出や編集を駆使して積極的に浮かび上がらせる営みであり、ドラマとの違いはないとまで言い切っている。むしろ、「客観的」や「中立」という概念が、日本のドキュメンタリーを貧しくしてきたのだと主張する。

 

うぅむ、なるほど。耳が痛い。

 

確かに、松江監督はこのような『ドキュ嘘』の方法論で「童貞。」を作っていたのだろう。そして、驚いたことに、こうしたドキュメンタリー観は結構浸透しているようなのだ。だから過剰な演出が告発されても「暴力性がうんぬん」などとあくまで方法論の範囲の問題として受け入れられるのだろう。「あの作品は嘘だらけだったのか、騙された!」などという反応は極めて少なかった。

 

僕としては、『ドキュ嘘』の主題におおむね賛同するし、この告発をもって「童貞。をプロデュース」が駄作だとは思わない。

 

しかし、人間は「事実だから感動する」という感覚があると思うのだ。

僕はドキュメンタリーを観るとき、若干「事実補正」がかかって感動してしまうタイプの人間だ。あと実話を題材にした映画なんかも好きで、これも「事実補正」の影響だと思う。

 

「これは事実である」という思い込みが、感動の強度を高める。

 

僕はドキュメンタリー(のようなもの)を作る仕事(のはしくれ)をしているが、確かにこの仕事を始めて「あるがままに撮る」などということがいかに欺瞞に満ちているかを痛感した。演出、作為的な編集、これは作品を作るうえで不可避である。ただの記録映像を垂れ流すわけにはいかない。

ただし、なるべく純度の高い「事実」で作品を構成するように努力している。これは綿密な下調べや準備に基づいた途方もない作業である。「こうしてください」と言えば、欲しいカットはすぐ撮れるのかもしれない。そうしないのは、ひとえに「事実の強さ」を信じているからだ。

 

ドキュメンタリーの演出や編集は必要だ。エッジの効いたものでも構わない。

ただ僕は「事実の強さ」を信じていたいし、演出や編集が無い袖を振るための「逃げ」に使われるのであれば、本末転倒であると思う。

 

 

タクシーとぼく

1か月ほど前の話。

 

その日は急いで取材に向かわなきゃいけなくて、建物を出てすぐ目に留まった対向車線を走るタクシーに、反射的に手を挙げてしまった。

すると、めっちゃ勢いよくUターンして、目の前に停まってくれた。

警察本部の前なのに無茶するなぁと思いながらも乗せてもらって、しばらくしたら運転手が話しかけてきた。

 

「あの、○○の記者さんですよね?」

「あっそうです」

「やっぱり。私ね、ことしの初めころに一度お伴させてもらったんですよ」

「えっそうなんですか。すみません気づかずに。よく覚えてますね。ありがとうございます」

「とても感じのいい人だったから。さっき手を挙げてるのを見て急いでいるようだったから、これは乗せてあげなきゃと思って咄嗟にハンドル切ったんですよ」

 

とても嬉しくて、名刺を渡して改めてご挨拶した。

 

僕は大嫌いな先輩がいて、彼はタクシー運転手に対する態度が悪くて他社の記者からも噂になっている。

僕たちはチケットに会社名も名前も書くのだけど、悪い印象を持たれると、他社の記者を乗せたときに「この前○○の記者を乗せたんですけど、態度が悪くて・・・」なんて愚痴をこぼされることは、実はよくある話。

その記者は、タクシーの車内で何度も電話で誰かに謝っていて、電話を切ったあと腹いせのように運転手に「わざと遠回りしている」と難癖をつけてきたそうだ。

 

だからというわけでもないが、僕は一期一会の人に対する態度にこそ、その人の本質的な性格が出ると思っていて、仕事上よくお世話になるタクシーの運転手には、いつも親切な態度を心掛けている。

 

だから、「とても感じのいい人だったから」と覚えて頂いていたことは、とても嬉しかった。

運転手さんが咄嗟にハンドルを切ったおかげで、取材にも間に合った。

 

僕はあまり精神論とか好まないのだけど、「因果応報」という仏教の教えも捨てたもんじゃないなぁと思いました。

 

 

ラジオを聴いている

つらつらと備忘録を書くブログを始めます。

 

一人暮らしを始めてから、前よりもラジオを聞くようになった。

一方で、テレビを見なくなった。テレビは家族とおしゃべりしながら見るのが楽しかったんだろうな。ひとりでバラエティ番組を見ても驚くほど笑えないことに気づく。

 

学生時代は「爆笑問題カーボーイ」と「文化系トークラジオLife」しか聴いていなかったのだけど、いまは「伊集院光 深夜の馬鹿力」の更新が楽しみで1週間を耐えていると言っても過言ではない。「ひとりでフリートーク」という、凡人がやったらなにひとつ面白くない状況なのに、余裕で面白い。

Podcastの配信だけでは飽きたらず、YouTubeでバックナンバーを漁って聴き続けていると、ある種のノウハウがあって話していることに気づく。20年近く話し続けていると、もはや芸能に近い域に達するのだなぁと。

 

話がうまい人つながりで言えば、「鈴木敏夫ジブリ汗まみれ」での鈴木さんの落ち着いた話し方も、とてもよい。彼がすごいのは記憶力だと思う。宮﨑駿と高畑勲とのエピソードトークの引き出しが半端ない。「宮さんがね、なんて言ったと思います?これがね〜、◯◯と言うんですよ」みたいな話が無限に出てくる。それが楽しくて、ついつい聴いてしまう。

 

ラジオは「ながら聞き」ができるから、とても便利なコンテンツだと思います。