ブレードランナー2049の感想
カルト的な人気を博した映画「ブレードランナー」の原作としても知られるこの小説は、フィリップ・K・ディックが1968年に上梓したSF小説の金字塔である。
しかし(これはSFというジャンルの宿命として)、不朽の名作ではない。
「アンドロイドと人間を隔てるものはなにか?」というSF作品におけるラディカルで普遍的なテーマは、科学技術の進歩とともに拡散と発展を遂げた。
人工知能や身体論、ネットワーク論、サイバースペース論などの各領域で研究が進んだ結果、より専門的かつ先鋭的な想像力を持つ作品が次々と現れるようになった。
もはや「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は過去の遺物になってしまったのか・・・。
しかし、作品の舞台となった2019年が目前に迫る2017年になっても、アンドロイドと共存する未来は見通せない。
そんなおり、「ブレードランナー2049」が公開された。
はじめに感想を述べると、まさに「アンドロイドと人間を隔てるものはなにか?」という前作のラディカルで普遍的なテーマを極めて正しくアップデートした秀作と言える。
以下はネタバレを含む。
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今作の主人公は、新型アンドロイドの警察官「K」。かつて感情が芽生えてしまうというバグにより反乱を起こした旧型アンドロイドを処分する仕事を遂行する中で、出産の形跡がある女性型アンドロイドの遺骨を発見する。さらに、遺骨のそばに記された「子ども」の生年月日とおぼしき日付は、他人から移植されたと思い込んでいたKの幼少期の記憶にある日付と一致していた。
表では警察官として人間の存在を脅かすアンドロイドの「子ども」の処分を命じられながらも、自分こそが人間と同じように胎内から生まれた「子ども」なのではないか?と疑いながら、Kは自分の記憶や出生のルーツを探る旅に出る。そのなかで自分が「子ども」であることの証拠が次々に見つかり、アンドロイドとしての自我が揺らぎはじめるK。そしてついに隠遁生活を送っていた父親と再開を果たし、自分こそがその「子ども」だと確信しつつあったとき、すべては勘違いであり、自分はただのアンドロイドに過ぎないという現実を突きつけられる。
しかし、Kは徒労感と絶望感に打ちひしがれたあと、アンドロイドを製造するウォレス社に拉致された、かつて父親だと信じていた男を命がけで救出する。男を本当の娘のもとに送り届けたあと、Kこと「ジョー」は、まさに人間らしく大義のために死んでいった。
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「人間らしさ」とは出生の経緯などとは関係なく、人間らしくあろうとする信念にこそ宿るのだという力強いメッセージは、「人間とは?」という問題提起に留まっていた前作のテーマを大きく更新する内容だと言えよう。
そしてこのメッセージは来たるべきアンドロイドだけでなく、いま世界の紛争地帯で幼い腕に銃を持たされ、あらかじめ人間性を奪われている子ども達の未来にも向けられているのかもしれない。
ところで、今作は「記憶」が重要なキーワードになっている。
主人公のKは幼少期の記憶に突き動かされて出生の秘密を探っていくが、結果的にその記憶は他人のものだった。しかし、偽の記憶を頼りに取り戻した幼少期の玩具を大切そうに握りしめたあと、父親だと思っていた男に渡すラストシーンは印象的だ。
アンドロイドと記憶というのもSFにおける古くて新しいテーマではあるが、ことしは偶然にも記憶をテーマに執筆を続ける小説家、カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した年でもあることを鑑賞中ふと思い出した。
記憶とはなにか。そして、アンドロイドにとって、記憶とデータベースの違いとはなにかを、改めて考えさせられる作品でもある。
そして、これだけは言いたいのだが、ジョイ役のアナ・デ・アルマスさんが死ぬほどかわいい。
そして、間違いなくこの作品のハイライトは、ジョーとジョイのラブシーンである。AR時代のセックスの新しい形を提示する、小説では為しえない素晴らしい映像になっている。