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ドキュメンタリー作品の感想を書くブログ

第9,10作目 パトリシオ・グスマン 監督作品『光のノスタルジア』『真珠のボタン』

チリ出身のパトリシオ・グスマン監督はラテンアメリカを代表するドキュメンタリー映画監督で、サンティアゴ国際ドキュメンタリー映画祭の創設者でもある。

「パトリシオグスマン」の画像検索結果
http://www.uplink.co.jp/nostalgiabutton/

代表作の『チリの闘い』三部作(1975~1979)は、チリで社会主義政権が米国から支援を受けた軍部のクーデターに敗北するまでを記録したドキュメンタリーで、映画を「社会変革の武器」とする、骨太な監督として知られる。

実際、グスマン監督は『チリの闘い』を制作中に軍事政権の左翼狩りに遭って逮捕され国外に亡命、国外からもチリの政治状況をテーマにした作品を発表し続け、現在はフランスに住んで監督活動を続けている。亡命当時、まだ30代前半だったというから早熟な才能に驚く。

 

2010年公開の『光のノスタルジア』、2015年公開の『真珠のボタン』は、チリを内外から見つめ続け70代に差しかかったグスマン監督が「記憶」をテーマにチリの歴史を問い直す、晩年を飾るのに相応しい大作だ。

 作品の射程は地球の誕生から現在、そしてアタカマ砂漠の塵から宇宙の果てまで、恐ろしく広く深い。

果てしない自然の悠久の営みの中に、あえて人間が短い歴史の中で繰り返してきた虐殺や植民地化を位置づけてみる。

この遠近法から浮かびあがるのは、陳腐な表現で恐縮だが「人間とは?」「生命とは?」という普遍的な問いだ。

目眩がするほどの時と空間の拡大と縮小を繰り返し、あらゆるメタファーを総動員してチリで起きた悲惨な歴史にゆっくりとピントを合わせていく。

 

これはジャーナリズムの仕事ではない。一般的なドキュメンタリーという概念も超え、時と空間の新たな感覚を創造する極めて映画的としか言いようのない奇特な作品だ。

もはや悟りの境地だが、さらにこの壮大な哲学的試みを映像化する映画監督としての実力と構成力に驚嘆せざるを得ない。

 


映画『真珠のボタン』『光のノスタルジア』予告編

 

映画における時間感覚について

 

映像は時と空間をパッケージするメディアだ。

 

ドキュメンタリー作家の佐藤真監督の言葉を借りれば、「写真は本源的に<それはかつてあった>という過去の記憶へさかのぼる志向をもっている。それに比べると、映画は、<現在ここにある>といった現在性へ踏みとどまろうとする志向をもっている」。

ドキュメンタリーの修辞学

ドキュメンタリーの修辞学

 

映画における時間感覚は極めて限定的だ。

カットや編集を駆使して時と空間を半ば詐術的に創りあげても、映像は「あるとき、ある場所で撮影された現実世界」という枠組みから逃れられない。むしろ、その「映像の現在性」を利用することで、カットの連なりの間にある「本当はあるはずの時間=記憶」を観客に脳内補完させることが、映画監督という詐欺師の腕の見せ所なのだ。それは同時に、映像というメディアが、その作品内に閉じた時間しか提示できないことを意味する。

 

しかし、グスマン監督の2作品が持つ時間の射程はおよそ2時間の上映時間を超え、遠い過去から遙か先の未来まで果てしなく続いている。

 

なぜ、このような時間感覚を映像で表現できるのか。

この2作品は共通して、チリの雄大な砂漠や自然や空や宇宙を、フィックス(固定)、あるいは生理的に無理のない緩やかな速度のパンで撮影した美麗な映像が連続し、そこに叙情的なナレーションが重なるというシークエンスが大半を占める。特に『真珠のボタン』では、ほとんど写真とナレーションだけのシークエンスもある。

 

実は、この「動かない映像」、静止画が持つ「過去の記憶へさかのぼる志向」が、この時間感覚を生み出している。

佐藤監督によれば、映画史には「動かない映画」にこだわる映画作家の系譜が存在するという。一瞬を永遠にする写真の持つ作用と、現在性を避けられない映像がもつ作用のグレーゾーンは、時と空間の詐術性に敏感であればあるほど興味をそそられる対象に違いない。

 

グスマン監督も、このグレーゾーンの持つ力を活用した1人というわけだ。

写真には過去に遡る力はあるが、未来を志向する力はない。

あらゆる写真は、潜在的に遺影なのである」。

しかし、映像には未来を志向する可能性が残されている。

 

チリの砂漠や自然をフィックスで撮影したとき、ほとんど静止画のように見える10秒にも満たない映像に、風に吹かれる砂塵や音、その場の空気感が詰まっている。

この自然の営みはこれまで何度となく繰り返されてきたのだろう。そして、これからも変わらず繰り返されていくのだろうという過去と未来への予感がある。

 

この2作品が持つテーマやメッセージ、張り巡らされたメタファーは多様で多義的だ。ナレーションや登場人物のインタビューで語られる内容は抽象的かつ詩的で、ともすれば観客が置いてきぼりになりかねない。

しかし、この壮大で哲学的な映画が現代を生きる私たちに対して説得力を持ちえているのは、ひとえに悠久の時間に私たちを誘う映像の魔法によるものである。