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ドキュメンタリー作品の感想を書くブログ

第5作目 平野勝之 監督作品『監督失格』

今回の作品は、平野勝之監督の『監督失格』。

2011年に公開され、ある衝撃的なシーンが話題となった。
プロデューサーは、なんと『エヴァンゲリオン』の庵野秀明である。

監督失格 Blu-ray(特典DVD付2枚組)

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 ジャンルとしては、いわゆるセルフ・ドキュメンタリーに位置づけられるだろう。

元恋人のAV女優・林由美香の死に直面し、絶望の淵に立たされた平野監督自身の喪失と再生を描いた作品だ。

前半は、当時アダルトビデオ業界で活躍していた平野監督と由美香が東京から北海道への自転車旅行に挑戦する伝説的なロードムービー『由美香』(企画段階のタイトルは「ワクワク不倫旅行」というもので、ハメ撮りを中心とするアダルトビデオになる予定だった)のダイジェスト版で構成され、不倫相手かつ仕事仲間でもあるという2人の複雑な関係性が描かれる。

後半は、由美香の死をきっかけに絶望する監督自身と由美香の母親(由美香ママ)を中心に、由美香との過去に決着をつけようとする葛藤が描かれている。

 

冒頭書いたように、本作には衝撃的なシーンがある。
由美香の遺体を平野監督が発見してしまう場面だ。

平野監督が数年ぶりに由美香を題材にした作品を制作するため自宅を訪れた際、応答がないことを不審に思い由美香ママと弟子を連れて鍵を開け中に入るのだが、平野監督はそこで由美香の遺体を見つけてしまう。弟子に預けたカメラは偶然にも録画状態のまま無造作に玄関先に置かれ、戸惑う平野監督や絶叫する由美香ママの姿をはっきりと記録している。

 

平野監督はこのあと、5年間カメラを握ることはなかった。しかしあの時、偶然にもカメラが回っていたことが「由美香の意志」であるように感じ、『監督失格』をつくるために立ち上がる。

 

この作品は、もちろん恋愛映画のように観ることもできる。愛する人の死は普遍的なテーマだが、本作はドキュメンタリーだけに胸に迫る切なさは凄まじいものがある。

一方、平野監督自身が述懐するように、由美香との関係はカメラがあって初めて成り立つものだったという苛立ちも、作品から感じられる。「監督と女優」という立場を超えてロマンを追い求める平野監督と、あくまでプロフェッショナルとして女優であり続けようとする由美香。このすれ違いが、とてつもなく切ない。

この作品は、現実とフィクションをカメラで傍若無人にひっかき回してきた平野勝之という男が、由美香とその死という圧倒的な現実を前に一度敗北し、そこから這い上がって監督としての「業」を取り戻していく喪失と再生の物語である。

 

本作を語る前に、平野監督のインタビューや関係者の座談会で構成された『監督失格まで』を参考に、彼のキャリアを追いたい。

 

「ポストダイレクトシネマの騎手」からAV監督へ

 

平野監督は1980年代、自主制作映画の監督としてキャリアをスタートさせる。

手持ちの8mmフィルムカメラという特性を生かした監督自身が役者と一緒に暴れまわるものや、内省的な日記映画など実験的な作品が多く、自主製作映画を広く紹介する「ぴあフィルムフェスティバル」では異例の3回連続入選を果たしている。

(ちなみに同時期にぴあフェスで活躍した監督には『愛のむきだし』の園子温や、『野火』の塚本晋也監督がいる)

 

この頃、平野監督は「ポストダイレクトシネマの騎手」と評されていた。

ダイレクトシネマとは、撮影と同時に録音し、ナレーションを入れずに事実をそのまま伝えることなどと定義され、フレデリック・ワイズマンに代表される古典的なドキュメンタリーの手法だ。

これに対し、ポストダイレクトシネマとは、明確な定義はないが、一般的に「映画が作者の意図を超えて、カメラの前で暴走し始めるような作品」とされるようだ。

ふつうフィクション映画では、役者がカメラを意識しながら演じるなどという状況はあり得ない。これに対しポストダイレクトシネマでは、役者がカメラがないかのように振る舞い演技するということ自体に疑義を唱え、フィクション映画ではあるものの、監督自身が被写体に向かって積極的に働きかけを行っていく。監督やそのカメラに触発された役者は、これに対し生のリアクションを取らざるを得ない。

そうしてフィルムに収められた映像は、フィクションでありながら、ドキュメンタリー(ダイレクトシネマ)でもある。

このフィクションと現実、主観と客観がないまぜになる状況が、ポストダイレクトシネマの核心だ。

 

ここまで書けば、平野監督がなぜアダルトビデオ業界に進出したかが分かるだろう。

AVにおけるセックスは当然フィクションであり、女優は演技をしている。しかし、生理反応である性的快感は、まぎれもない本物だ。さらにAV女優たちはカメラで撮られている状況に触発され、どこまでが演技でどこからが快感なのかが曖昧なまま、プレイがエスカレートしていく。AVとはもともと、ポストダイレクトシネマ的状況で作られる作品なのだ。

このころのAVは、カメラの小型化に伴い、カンパニー松尾監督に代表される「ハメ撮り」という手法が台頭してきた時期でもある。監督による女優との関係性そのものへの介入ろいう手法が、AV業界でも取り入れられてきた。

 

その舞台で平野監督は、次々と実験的な「抜けない」AVを発表していく。

とてもここで書けるような内容ではないが、重要な作品のタイトルだけ挙げるとすれば

『暴走監禁逆ナンパたれ流しドライブ 水戸拷問~大江戸ひき廻し~』、

『自力出産ドキュメント あなたの赤ちゃん生ませて下さい ザ・タブー2』、

『アンチSEXフレンド募集ビデオ』、

そしてデビュー作でもあり由美香と出会うきっかけとなった『由美香の発情期』だろう。

タイトルだけでも十分ヤバさが伝わると思うが、もし興味があれば先ほど挙げた『監督失格まで』に内容が詳しく書かれているので、ぜひ読んでみてほしい。

 

自分と被写体を極限まで追い込み、フィクションという枠組みから溢れ出る人間の本質にカメラを向け続けてきた平野監督にとって、タブーの少ないAV業界は楽園だったのだろう。

そのなかでも、監督の働きかけに対してヴィヴィッドなリアクションを返してくれる最も相棒に相応しい女優が、由美香だった。

 

カメラを介した関係性

 

「僕と林由美香は、カメラという第三の人格を通してだけ、唯一結ばれた関係だったのだ」と、『監督失格』のブックレットで平野監督は語っている。

 

本作の前半を構成する『由美香』では、徐々に自転車の旅にのめりこんでいく平野監督と、旅に全くj楽しみを見出さずメイクを気にしながら旅を続ける由美香とのすれ違いが描かれる。

そのすれ違いが原因で喧嘩をしてしまうのだが、平野監督はその場面でカメラを回すことを忘れてしまった。その直後、由美香に言われた一言が、「監督失格だね」だったのだ。

この言葉は二重に切ない。作品に私情を挟み、監督としてカメラを回すという最大の役割を放棄したという後悔がひとつ。もうひとつは、撮影を忘れるほど本気で喧嘩をしているのに、相手はあくまで女優として作品を第一に考えているというドライさだ。

 

これまで散々カメラでフィクションを犯し現実を抉り出してきた男が、「由美香」という現実を前に容易に敗北してしまった。

 

平野監督が由美香にこだわり続けたのは、カメラでねじ伏せられない(=作品に昇華することのできない)現実に初めて出会ったという驚きと感動があったからだろう。

 

なぜ『監督失格』なのか

 

これほど名は体を表す作品もない。

平野監督が『監督失格』を制作したのは、偶然にも「由美香の死」が残ってしまったからだ。

遺体を発見したとき、平野監督はカメラを持っていた。しかし、それを由美香の遺体に向けることはできなかった。そのことが、由美香にまた「監督失格だね」と言われている気がして仕方がなかったという。

映画評論家の北小路隆志は、由美香の死のシーンを「カメラの非情かつ寛容な機械的リアリズムがここまで明白に画面に刻まれる瞬間も稀である点で映画史に残る偉大なものである」と指摘している。

このシーンでカメラは無造作に床に置かれ、広角かつフィックス(固定)で撮影されており、カメラの「機能としてのまなざし」を最も感じさせる画角となっている。

 

平野監督はここで、改めて機械としてのカメラの客観性、暴力性とも対峙せざるを得なくなる。由美香との戦いに負け、自分が手足のように使ってきたカメラにも、作家として手に負えない圧倒的な現実を突きつけられた。

平野監督が自信を喪失し、このあと5年もカメラを握れなかったという心境は推し量るにあまりある。

 

しかし、監督は再びカメラを手に取った。

「由美香」と、その「死」という現実を、監督として作品に昇華しなければ、二度と立ち上がれない。

 

本作のクライマックス。

どうしてもラストシーンが決まらず悶々としていた平野監督は、「自分は由美香とお別れしたくないのだ」と気づく。また『監督失格』ではないか。自分の弱さに気づき号泣するところを撮影したあと、カメラを持ったまま自転車に乗って「いっちまえ」と叫びながら街中を疾走する。奇しくも、平野監督の初期作品『狂った触覚』と同じように。すべてをゼロにリセットするかのように。
このシーンがあまりにも青臭く、嘘っぽく観える人もいるかもしれない。
ただ僕は、そう見えてもなお、なんとか由美香との思い出を映画に昇華しなければならないという執念がこもっている名シーンだと思う。
このとき平野勝之はようやく、現実をねじ伏せてやろうという映画監督としての業を取り戻したのだ。

平野監督は多くのフィルムに焼き付いた現実の切れ端を、なんとか映画に押し込めて由美香とお別れすることに成功した。これはひとつの通過儀礼だったのだろう。

由美香は死してなお、平野監督に監督としての資格を問い続けた。

監督失格』ほど、映画監督であることの悲哀に向き合った作品はない。

 

これはただのロマンチストな男の喪失と再生の物語ではない。

ある映画監督の、喪失と再生の物語なのである。