bye2bigbrother’s blog

ドキュメンタリー作品の感想を書くブログ

第3,4作目 森達也 監督作品『A』『A2』

 

今回は森達也監督のデビュー作にして代表作『A』と、その続編である『A2』の感想をまとめて書くことにした。

どちらも「オウム真理教」という題材を扱っており、2作を通じて森監督の視点の変遷とテーマの深化が伺える。

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1998年に公開された『A』は、オウム真理教のメンバーが地下鉄サリン事件を起こした直後の1995年から撮影が始められ、事件の後始末に追われる荒木浩広報部長を中心に教会の内側からマスコミや社会との関わりを描いた作品だ。

『A』から4年後の2002年に公開された『A2』は、全国各地でオウム関連施設からの退去を余儀なくされた信者たちと地域住民との軋轢と融和を描く。

 

ドキュメンタリーは嘘をつく

森達也監督は、僕がこのブログを書くきっかけとなった本『ドキュメンタリーは嘘をつく』の著者でもある。

なぜ『ドキュ嘘』を読むに至ったかについては、以下の過去記事を参照してほしい。

 

bye2bigbrother.hatenablog.com

 

僕はテレビジャーナリズムの片隅に身を置く人間だ。
しかし、この本を読んで自分のドキュメンタリー像が大きく揺らいだ。
森監督の整理によると、どうやら僕が作っていたものはジャーナリズムではあるがドキュメンタリーではないらしい。

では、ドキュメンタリーとはなんなのか。
それを「カメラ」という異物の存在、フィクションとノンフィクションの境界、撮影者と被写体の関係性などから考えてみたいという思いから始めたのが、このブログである。

「A」-客観・公正・中立

 

森監督は、「公正中立・そして不偏不党なドキュメンタリーなどあり得ない」と常々主張し続けている。
ドキュメンタリーとは撮影のカメラワークから編集まで徹底的に作為の産物であり、事実という破片を寄せ集めて監督の世界観を表現する営みだ。
先に挙げた著書やインタビューなどで執拗に繰り返されるこの主張は、テレビディレクター時代に「公正中立」という価値観を刷り込まれた自分自身への反動でもあるだろう。
森監督はデビュー作となる『A』に、己の反骨精神や思想を存分にぶつけたはずだ。

しかし、同じくオウム真理教を題材にした『アンダーグラウンド』の著者、村上春樹による『A』のレビューは、こんな書き出しから始まる。

真摯に情報を表現しようとするもの=ジャーナリストにとってもっとも重要なことのひとつは、そこにある「素材」を、情報としてそのまま公正に伝えることである。
(中略)『A』とそれに続く『A2』において、森監督はその原則に従い、可能な限り制作過程における色づけを排し、判断を保留し、そこにある状況をカメラの目で率直に切り取り、ありのままに伝達しようとつとめているように見える。


森監督にとって、これほど屈辱的な評価はないようにも思える。

では、村上春樹は『A』について決定的なミスリードを犯しているのか?
そうではない。確かに本作は、オウム真理教という戦後最大のテロリスト集団を描くうえで、客観的で公正中かのように見えてしまうのだ。

『A』において森監督の関心はただ1点、なぜ彼らがオウム真理教に惹かれ、信者になったのかということにあった。それは、オウムと名の付くものであれば徹底的に批判され排除された当時の日本では、耳を塞ぎたくなるような「加害者の論理」だっただろう。
だが森監督には、その「論理」こそが、あの事件から学ぶべきことだったという確信がある。「僕らはあの事件からまだ何も学べていない」という強い疑問が、森監督を突き動かしていたのだ。

とりわけ有名なシーンがある。
警察官がオウム信者の前に立ちはだかり、突き飛ばされたふりをして言いがかりをつけ公務執行妨害で逮捕するという、いわゆる「転び公防」を撮影した場面だ。
この行為は、森監督のカメラも含む公衆の面前で繰り広げられた。
警察は、マスコミが作り出す「オウム憎し」の世論を後ろ盾に、恥ずかしげもなく違法捜査を行っていたのだ。当時の「正義」や「公正中立」は、「転び公防」でオウムの信者をひとりでも排除しようという社会や警察側にあった。

『A』が客観的で中立のように見えるのは、誰より森監督自身が「客観的、中立などというのはあり得ない」と確信していたからだ。つまり、オウム側から見た現実があるはずだという当たり前のことに気付いていたのが、森監督だけだったという単純な理由である。

カメラ越しに森監督と朗らかに会話する信者たちは、どこにでもいる「普通の」人たちと何も変わらない。
本作の主役ともいえる荒木広報部長は、マスコミの矢面に立たされても声を荒げることもなく論理的に対応し、誰もが応援したくなるような実直な若者にすら映る。むしろ好奇心をむき出しにしたマスコミや、感情に任せて罵声を浴びせるオウム施設の周辺住民のほうが、よほど狂気のように見える。

だが、これも森監督の作為により構成された、一方的な現実に過ぎない。
オウム信者は「普通の」ひとたちなのかもしれない。
観客がそう感じた直後、カルト宗教としか言いようのない独特の修行に打ち込む信者たちのシーンが挿入される。観客に持たせたイメージを、直後に覆す。こうした手法は、『FAKE』のラストカットにも見られる森監督の常套手段だ。

一連の事件報道で根付いた、オウム真理教は絶対悪だという「公正」で「中立」な価値観。
それに揺さぶりをかけるのが、『A』で森監督が企てた試みだ。

 

「A」-状況を切り取る、意味をつなげる

 

村上春樹が抱いた「客観的」という『A』のイメージは、カメラワークやカットのつなげ方からも伺える。この作品では、もともと森監督が持っているジャーナリストとしての気質が見え隠れしている。

ひとつは、カメラと被写体の距離感だ。
『A』における森監督のカメラは、人ではなく状況を中心に切り取る。被写体が何をしているかという行為に焦点を当て、短くカットをつなげていく。
ひとつのカットに意図があり、作為がある。カットの連なりに意味が溢れている。
前回取り上げた想田和弘監督の『精神』は、人や表情にフォーカスし、カットの長回しを多用することによって、「何をしているか」と同時に「何をしていないか」にも注目してシーンをつなげていた。
「撮れてしまったもの」に意味を見出す想田監督と、作為を徹底する森監督は、方法論として好対照を為している。

また、『A』は地下鉄サリン事件後の施設退去や会見など、刻々と変化する教会の状況を出来事ベースで追いかけていく。そのため、マスコミと森監督が鉢合わせる場面も必然的に多くなる。ドキュメンタリーというより、ニュースの発想に近いのだ。そこには森監督のテレビディレクターとして培った勘と、なるべく多角的にオウムを描きたいというバランス感覚が働いている。

『A』で森監督は、次から次へと教会の周辺で起きる出来事を必至に追いかけてシーンを繋げようとするあまり、どうしても意味の連なりから逃れられないように見える。それは良質なジャーナリズムの条件ではあるが、果たして森監督の目指すドキュメンタリーなのだろうか。
こうした森監督の製作姿勢が、本作をオウムの本質から上滑りさせているように見えて仕方ないのだ。

 

「A2」―状況から人へ

 

『A』が荒木浩を中心に時系列で出来事を追いかけるロードムービー的な作品だったのに対し、『A2』は信者や住民たちとの交流を描いた日常系ともいうべき作品だ。
『A2』は『A』から2年半後に撮影しており、相変わらずオウム真理教に対する世間の風当たりは強いものの、当時の「オウム憎し」という空気は少しずつ薄れつつある。

森監督は本作のなかで、オウムの施設を退去させようと信者を監視していた地域住民が、監視する・される関係を続けるなかで親睦を深めていくシーンに多くの時間を割いている。若く真面目そうな信者に対して、ひとつのことを極めようとする姿勢を応援したいという女性まで登場するのだ。

『A2』で森監督のカメラは、信者と住民たちとの何気ない交流を丁寧に捉えていく。
一見すると、ひとりひとりの人間が向き合えば、宗教や過去の悲惨な事件を乗り越えてお互いを理解しあうことができるというメッセージのように思える。

しかし、ほのぼのとした信者と地域住民のやりとりを描いた直後、森監督はその信者に「オウムの事件をどう思っているか?」と尋ねる。(なんという作為だろう!)
信者はこともなげに、「私も尊師に命令されていたらやっていたと思います」と答えるのだ。森監督は、この答えを言わせたかったに違いない。

理解など一切できていない。そこにあるのは、むしろ圧倒的な断絶なのだ。
そこには、人間の本質や宗教の底知れぬ深淵が顔をのぞかせている。
作品を観て、私たちは理解に苦しむ。なぜそこまでオウム真理教を盲目的に信じられるのかと、信者たちのまっすぐな瞳に何度も問いかけたくなる。

結局、分からないのだ。

作品に登場する信者らは、マスコミが事件の背景を説明するときに使いたがる「孤独」や「心の隙間」などとは無縁である。信仰に因果関係など、なにもない。
『A2』は、私たちがオウムについて分かった気になることを徹底的に拒絶する。
『A』で森監督が企てたゆさぶりをより先鋭化させた結果、日常と狂気の境界線はより曖昧になり、理解不能な現実を前に私たちは恐怖すら覚える。

 

「A2」―世界はもっと豊かだし人はもっと優しい

 

ただ、森達也はこの作品に以下のようなコピーをつけている。

「世界はもっと豊かだし人はもっと優しい」

それは、分かりあえないことを抱きしめようという、森監督が『A2』に込めた最大のメッセージだ。

『A2』は、オウム真理教の後継団体「アレフ」の広報部長になった荒木浩の挑発的なインタビューで幕を閉じる。森監督は、なぜオウム真理教アレフという名前に変えるのか。なぜ一連の事件について謝罪し、賠償金を払うことで世間と和解しようとするのかと厳しく問いただす。

森監督がオウムに並々ならぬ関心を抱いていた理由のひとつは、彼らがオウム真理教の巻き起こした一連の事件について、謝罪できないということだ。しないのではない。できないのだ。
尊師の教えは絶対だと信じてきた信者たちにとって、事件をどう受け止めていいのかわからない。なにをどう反省すべきかわからないから、適当な気持ちで謝罪はできない。それは森監督の目に、不器用だが誠実な態度だと映った。

だからこそ事件が総括できていないのにも関わらず、安易に世間との融和を図ろうとするアレフの方針が許せなかったのだ。

世の中には同じ物差しで測れない異物が存在する。それを認めずに隠ぺいすることは、本質的な解決にはならない。
公正中立という立場を措定すれば、オウムのような異物を排除することになる。それは結果的に、テロ集団を社会がつくりだすことに繋がるのではないか。普遍的だと信じられてきた欧米の自由・平等・平和という価値観が、ISを生み出したように。

異物を、異物のまま受け入れよう。
それが豊かで優しくあろうとする森達也監督の、社会に対するプロテストであり、本作の主張なのだ。
『A2』は私たちとオウムとの断絶を描くが、受容の萌芽は確かにあった。

『A』から『A2』を経て森監督は、自身のドキュメンタリー像を完成させた。
この作品が客観的で中立でなくてなんなのだろうかと、改めて僕は言いたい。