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ドキュメンタリー作品の感想を書くブログ

第2作目 想田和弘 監督作品『精神』

今回の作品は、想田和弘監督の「観察映画」第2弾となる『精神』。
 

精神 [DVD]

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『精神』は、岡山県にある外来の精神科診療所「こらーる岡山」を舞台に、通院する精神病患者や診療所のスタッフ、ホームヘルパーたちの生活を淡々と描くドキュメンタリーだ。
患者に一切モザイクをかけず、「観察映画」という想田監督の代名詞ともいうべき方法論で撮られた映像は、健常者と精神障害者の境界を改めて問い直す作品となっている。
そして、誰もがどこか病んでいる私たちの心がふっと軽くなる、こころの処方箋のような映画でもある。

 

観察映画とは

 

想田監督は、自身のドキュメンタリー作品を「観察映画」と呼んでいる。
監督の著書『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』で具体的な方法論を列挙しているので、一部を抜粋・要約しよう。

  • 被写体や題材に関するリサーチは行わない。
  • 被写体と撮影内容に関する打ち合わせは原則行わない。
  • 台本は書かない。事前にテーマを設定しない。
  • 撮影、録音を原則監督ひとりで行う。
  • 長時間、あらゆる場面でカメラを回す。
  • ナレーション、説明テロップ、音楽を原則使わない。
  • 長回しを多用して臨場感を大切にする。
なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

 

このような方法論は、テレビのそれと真逆である。
テレビ業界では事前のリサーチ取材が重要で、どのようなストーリーが描けるか、それに合った画が撮れるか、インタビューはどんな内容になるかまで予め調べたうえで台本を書き、ロケはその内容に沿うように進められていく。
こうした手法は、視聴者に内容を分かりやすく伝えるという点では効果的だが、どうしても結論ありきの一方的な番組にならざるを得ない。
想田監督は元NHKの外部ディレクターであり、テレビ業界の慣習を知っているがゆえに、アンチ・テレビの方法論として観察映画というスタイルを採ったという。

一見すると観察映画は「事実をありのままに切り取る」ように感じるが、監督は「客観的や中立的ということではない」としている。
観察とは箱庭を天上からのぞき込むような特権的な視点ではなく、あくまで監督による主観的なものなのだ。
『精神』では特に、あえて患者と監督自身の会話を映像に残すことで、観察者と被観察者との関係性を強調している。(監督はそれを「参与観察」と呼んでいる)


観察映画は、観客が映画の中で起きることを主体的に観察して解釈できるよう、作品に多義性を残すことができるという。
結果的に『精神』という作品は、観察そのものが作品の重要なテーマを形づくっている。

精神障害者」をどう見たらいいのか?

 
言うまでもなく、『精神』という作品は精神病患者という「見えないカーテン」の向こう側にいる人たちにカメラを向けることで、私たちのなかにある先入観や偏見を問い直す作品である。
しかし監督は、その「解釈」を作品中にあえて提示することをしない。

舞台となる「こらーる岡山」は、山本昌知医師が1997年に設立した精神科の診療所だ。
山本医師は70年代、精神病患者を閉じ込める閉鎖病棟の錠を外す活動を率先して行い、そのころから「当事者本位の医療」をモットーに活動している。「こらーる岡山」も当事者と議論しながら運営方針を決めており、患者から絶大な信頼を寄せられていることが作品からもうかがえる。
いわば、スクリーンに映し出された精神障害者をどう見たらいいのか戸惑う観客に対し、「圧倒的に正しい答え」を持っている人物である。

しかし、この作品には山本医師が自身の考えを話すシーンは一切、ない。

冒頭、カメラは長回しで病院に訪れた女性と山本医師のやりとりを追っていく。手首にはリストカットの傷があり、泣きながら「もう死にたい」と訴える女性に、観客は言葉を失い、どう言葉をかければいいのかと考えるだろう。おそらく想田監督自身、カメラを回しながら同じことを考えていたに違いない。
僕ならここで、診療が終わったあとの山本医師にインタビューをしたいところだ。
「彼女のような病気を持つ患者にどう接したらいいのか」「どういう方針で診察をしているのか」「私たちにできることはなにか」…

だが、それをすると私たちはすぐに、限りなく「答え」に近いものに辿り着いてしまうことになる。
想田監督は、撮影にあたり事前に精神病の勉強をしなかったという。「見えないカーテンの向こう側」を初めて覗いた戸惑いが、カメラワークの随所に感じ取ることができる。
監督自身、知らない、わからないがゆえに、丁寧に観察し、主体的に考えている。

私たちは監督自身の観察の結果(=作品)を追体験する形で、精神病の世界を覗きこむことになる。
その体験こそが、監督が観客に映画を通して提示したかったものなのだ。


モザイクをかけないということ

 
『精神』の最大の特徴であり挑戦は、登場する患者たちの顔に一切モザイクをかけなかったことだ。
モザイクは患者のプライバシーを守るためだけのものではない。もっと多くのものを覆い隠してしまう「甘い罠」である。

この作品を観ると、不思議なくらい健常者と精神障害者の境目が曖昧になる。いや、もともと曖昧だったのだ。私たちが知らなかっただけで。
「こらーる岡山」は民家を改装した診療所で、居間のような待合室で患者とスタッフが談笑していたりするため、さっきまでスタッフだと思っていた人が実は患者だったことに後で気づくこともある。

それは、モザイクがあれば決して起こりえない体験だ。
モザイクは、私たちが「観察」を始める前に、誰が患者なのかを浮き彫りにする。もし「人格障害で苦しむ田中さん(仮名)」などとテロップをつけられたら、観客はその人の仕草や言動のなかに、人格障害者の特徴を探さずにはいられないだろう。

精神科医香山リカがDVDにコメントを寄せていたように、この作品は純粋に「人」を見ることができる映画だ。
だからこそ、僕は登場する患者の方々に強く共感できた。テレビではモザイクが覆い隠してしまうであろう患者たちの表情に、人懐っこそうな笑顔を見ることができた。目は口ほどに物を言うのだ。
結局のところ、みんな同じようなことに悩んだり傷ついたりしているということに、改めて気づかされる。
少しのはずみで、自分が患者側になることも十分あり得るのだという恐怖すら感じる。

ただ、撮影には相当神経をすり減らして臨んでいたことが、本作のメイキング本とも言える監督の著書『精神病とモザイク』で語られている。

精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)

精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)

 

実際、撮影を許可してくれたのは、お願いした患者のうち1割程度だったという。(なお、監督は患者が自分で判断ができる状況であったのか山本医師に確認している)
いくら許可を得たとはいえ、トラブルの可能性は捨てきれないからモザイクはかけるべきだという意見もあるだろう。

著書やDVDでは、想田監督が出演者の方々と「私たちが映画に出た理由」をテーマに座談会をした模様が収録されている。
そこでは出演者たち自身が、リスクを負ってでも自分たちの病気や置かれている状況を分かってほしいと考えたことが語られている。

想田監督は、昨今のモザイクの乱用は患者の人権やプライバシーを尊重するためではなく、面倒なトラブルを避けてテレビ局などの現場が責任放棄するための道具に過ぎないと指摘している。この指摘は、とても重要だ。

精神障害者の顔にモザイクをかけているのは、病気ではなく撮影者のエゴなのだ。それは精神障害を「見えないカーテンの向こう側」、鍵をかけた閉鎖病棟のなかに閉じ込めることに他ならず、山本医師のモットーである「当事者本位」ともかけ離れている。

想田監督はモザイクを外すことで、精神障害者が疎外されていた映像というメディアのなかに「当事者」の居場所を取り戻したのだ。

 

観察映画が撮れたもの、撮れなかったもの

 
モザイクやテロップなどの「レッテル貼り」を避け、あらゆる先入観を廃して「人」をつぶさに観察する想田監督のまなざしが、精神障害者を隔てる「見えないカーテン」を消し去ることに成功した。

リサーチや打ち合わせしなかったからこそ、「撮れてしまった部分」もある。
例えば、藤原さんという女性が、自分の幼い娘を虐待で殺害してしまったことを語る場面。
作品のなかでも非常にショッキングで重要なシーンだが、もしこの話を事前にリサーチ取材で聞いていた場合、改めてカメラの前で話してもらうのは至難の業だろう。それに、カメラ越しにひしひしと伝わってくる「すごいものが撮れている」という現場の
臨場感は絶対に再現できない。
実はこのシーンの使用を巡っては試写会で藤原さんが少しだけ難色を示すのだが、想田監督が丁寧に使用した意味を伝えることで理解を得ている。


作品の終盤、私たち観客が精神障害者に愛着と敬意を十分に抱き始めたころ、患者たちが自作の詩を朗読しながら笑顔で語り合うという牧歌的なシーンがある。

しかし、次のカットで雰囲気は一転する。土足のまま診療所に入ってきた患者の男性が勝手に電話を占有して役所に意味不明な電話を長時間かけ続けたあと、バイクに乗って乱暴に出ていく。そして本作に登場した3人の患者の写真と、「追悼」の文字。
「そう単純なものではない」という違和感を残すラストは、想田監督自身「これ以外あり得なかった」という見事な構成だ。

 

 一方、観察映画が撮れなかったものもある。
先述した患者との座談会で、美咲さんという患者の女性が監督に「ごめんなさい、言っていいですか? こんなんじゃねえ(笑)」と語りかけるように、映像は患者たちが病院に来られるほど比較的体調のいいときに撮影しているものがほとんどだ。
また、全国でも珍しい開放的な診療所の「こらーる岡山」を舞台にした観察映画であり、精神障害という病気の実態を多角的に捉えているとは言い難い。おそらく患者の印象も、入院病棟の方々と比べれば大きく異なるはずだ。


観察映画だけでなくドキュメンタリーというジャンルは、ある個別の対象に密着して、その一部を切り取らざるを得ない。一方こうした問題は、声なき声の一部をすくい上げるがゆえに、それがマジョリティであると誤解を受けやすい。

観察映画は、ミクロな視点を深く掘り下げることで普遍性を獲得する方法論だ。
その可能性と限界を考えさせられる作品でもある。