bye2bigbrother’s blog

ドキュメンタリー作品の感想を書くブログ

事実の強さ

森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』を読んだ。

きっかけは、ことし8月にあった「童貞。をプロデュース」の舞台挨拶でのある事件。

 

出演者の1人が、AV女優との絡みや好きな人への告白を強要されたという撮影の裏側を告発し、舞台上で股間を丸出しにして監督に口淫を迫ったのだ。

まだどこかに当時の動画がアップロードされているかもしれない。

また、この告発内容については、実は作品が公開されてから間もなく、本人がブログに書いている。

土下座100時間:世界で一番やさしいゲロ - livedoor Blog(ブログ)

 

実際に強要があったのかどうかは僕に知る由もないし、そもそも僕は「童貞。」を観ていないので何も語る資格はないのかもしれない。

それでも、僕が想像するに出演者が強要されたというシーンは作品の根幹に関わる重要なパートではないかと思う。女性を過度に理想化して「AV女優は汚らわしい」と思うのはいかにも童貞らしいし、そんな童貞が自分の意志で殻を破り告白するからこそ、みんな感動したのではないか。それが、出演者自身によって「別に女性が汚らわしいと思ってない」とか「無理矢理告白させられた」とか告発されてしまったら、ファンは興ざめするか怒るかするだろうなぁと、外野からぼんやり炎上騒ぎを眺めて思っていたのだ。

 

しかし、実際のTwitterの反応は違った。やれ「この事件はドキュメンタリーがもつ暴力性を浮き彫りにした」だの「これは童貞。をプロデュースの延長としてのドキュメンタリーである」だの、訳知り顔で語っている人が多い。なんとなく言わんとしていることはわかるし、「童貞。をプロデュース」を観るような層はドキュメンタリーをたしなむ教養があるのかもしれないが、一体これはどういうことかと思っていると、以下のブログを見つけた

「童貞。をプロデュースの現実」vs.「加賀賢三氏の現実」はあり得ない - web版:ラッパー宣言(仮)

 

この記事では、「童貞。」の松江監督が森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』の主題を念頭に作品をつくっていると指摘している。

そこで『ドキュ嘘』に興味が惹かれて読んでみたわけだが、自分のドキュメンタリー観が覆されるエキサイティングな読書体験だった。

僕は、ドキュメンタリーは多少の演出はあれど原則「客観的事実」の集合で作られていると思っていた。つまり監督はなるべく被写体や状況に干渉せず、あるがままの事実を記録していくのだと。しかし筆者の森達也はその考えを強く否定する。ドキュメンタリーは事実のある側面を、監督が演出や編集を駆使して積極的に浮かび上がらせる営みであり、ドラマとの違いはないとまで言い切っている。むしろ、「客観的」や「中立」という概念が、日本のドキュメンタリーを貧しくしてきたのだと主張する。

 

うぅむ、なるほど。耳が痛い。

 

確かに、松江監督はこのような『ドキュ嘘』の方法論で「童貞。」を作っていたのだろう。そして、驚いたことに、こうしたドキュメンタリー観は結構浸透しているようなのだ。だから過剰な演出が告発されても「暴力性がうんぬん」などとあくまで方法論の範囲の問題として受け入れられるのだろう。「あの作品は嘘だらけだったのか、騙された!」などという反応は極めて少なかった。

 

僕としては、『ドキュ嘘』の主題におおむね賛同するし、この告発をもって「童貞。をプロデュース」が駄作だとは思わない。

 

しかし、人間は「事実だから感動する」という感覚があると思うのだ。

僕はドキュメンタリーを観るとき、若干「事実補正」がかかって感動してしまうタイプの人間だ。あと実話を題材にした映画なんかも好きで、これも「事実補正」の影響だと思う。

 

「これは事実である」という思い込みが、感動の強度を高める。

 

僕はドキュメンタリー(のようなもの)を作る仕事(のはしくれ)をしているが、確かにこの仕事を始めて「あるがままに撮る」などということがいかに欺瞞に満ちているかを痛感した。演出、作為的な編集、これは作品を作るうえで不可避である。ただの記録映像を垂れ流すわけにはいかない。

ただし、なるべく純度の高い「事実」で作品を構成するように努力している。これは綿密な下調べや準備に基づいた途方もない作業である。「こうしてください」と言えば、欲しいカットはすぐ撮れるのかもしれない。そうしないのは、ひとえに「事実の強さ」を信じているからだ。

 

ドキュメンタリーの演出や編集は必要だ。エッジの効いたものでも構わない。

ただ僕は「事実の強さ」を信じていたいし、演出や編集が無い袖を振るための「逃げ」に使われるのであれば、本末転倒であると思う。