第9,10作目 パトリシオ・グスマン 監督作品『光のノスタルジア』『真珠のボタン』
チリ出身のパトリシオ・グスマン監督はラテンアメリカを代表するドキュメンタリー映画監督で、サンティアゴ国際ドキュメンタリー映画祭の創設者でもある。
http://www.uplink.co.jp/nostalgiabutton/
代表作の『チリの闘い』三部作(1975~1979)は、チリで社会主義政権が米国から支援を受けた軍部のクーデターに敗北するまでを記録したドキュメンタリーで、映画を「社会変革の武器」とする、骨太な監督として知られる。
実際、グスマン監督は『チリの闘い』を制作中に軍事政権の左翼狩りに遭って逮捕され国外に亡命、国外からもチリの政治状況をテーマにした作品を発表し続け、現在はフランスに住んで監督活動を続けている。亡命当時、まだ30代前半だったというから早熟な才能に驚く。
2010年公開の『光のノスタルジア』、2015年公開の『真珠のボタン』は、チリを内外から見つめ続け70代に差しかかったグスマン監督が「記憶」をテーマにチリの歴史を問い直す、晩年を飾るのに相応しい大作だ。
パトリシオ・グスマン監督『光のノスタルジア』『真珠のボタン』DVDツインパック <2枚組>
- 出版社/メーカー: IVC,Ltd.(VC)(D)
- 発売日: 2017/04/28
- メディア: DVD
- この商品を含むブログを見る
作品の射程は地球の誕生から現在、そしてアタカマ砂漠の塵から宇宙の果てまで、恐ろしく広く深い。
果てしない自然の悠久の営みの中に、あえて人間が短い歴史の中で繰り返してきた虐殺や植民地化を位置づけてみる。
この遠近法から浮かびあがるのは、陳腐な表現で恐縮だが「人間とは?」「生命とは?」という普遍的な問いだ。
目眩がするほどの時と空間の拡大と縮小を繰り返し、あらゆるメタファーを総動員してチリで起きた悲惨な歴史にゆっくりとピントを合わせていく。
これはジャーナリズムの仕事ではない。一般的なドキュメンタリーという概念も超え、時と空間の新たな感覚を創造する極めて映画的としか言いようのない奇特な作品だ。
もはや悟りの境地だが、さらにこの壮大な哲学的試みを映像化する映画監督としての実力と構成力に驚嘆せざるを得ない。
映画における時間感覚について
映像は時と空間をパッケージするメディアだ。
ドキュメンタリー作家の佐藤真監督の言葉を借りれば、「写真は本源的に<それはかつてあった>という過去の記憶へさかのぼる志向をもっている。それに比べると、映画は、<現在ここにある>といった現在性へ踏みとどまろうとする志向をもっている」。
映画における時間感覚は極めて限定的だ。
カットや編集を駆使して時と空間を半ば詐術的に創りあげても、映像は「あるとき、ある場所で撮影された現実世界」という枠組みから逃れられない。むしろ、その「映像の現在性」を利用することで、カットの連なりの間にある「本当はあるはずの時間=記憶」を観客に脳内補完させることが、映画監督という詐欺師の腕の見せ所なのだ。それは同時に、映像というメディアが、その作品内に閉じた時間しか提示できないことを意味する。
しかし、グスマン監督の2作品が持つ時間の射程はおよそ2時間の上映時間を超え、遠い過去から遙か先の未来まで果てしなく続いている。
なぜ、このような時間感覚を映像で表現できるのか。
この2作品は共通して、チリの雄大な砂漠や自然や空や宇宙を、フィックス(固定)、あるいは生理的に無理のない緩やかな速度のパンで撮影した美麗な映像が連続し、そこに叙情的なナレーションが重なるというシークエンスが大半を占める。特に『真珠のボタン』では、ほとんど写真とナレーションだけのシークエンスもある。
実は、この「動かない映像」、静止画が持つ「過去の記憶へさかのぼる志向」が、この時間感覚を生み出している。
佐藤監督によれば、映画史には「動かない映画」にこだわる映画作家の系譜が存在するという。一瞬を永遠にする写真の持つ作用と、現在性を避けられない映像がもつ作用のグレーゾーンは、時と空間の詐術性に敏感であればあるほど興味をそそられる対象に違いない。
グスマン監督も、このグレーゾーンの持つ力を活用した1人というわけだ。
写真には過去に遡る力はあるが、未来を志向する力はない。
「あらゆる写真は、潜在的に遺影なのである」。
しかし、映像には未来を志向する可能性が残されている。
チリの砂漠や自然をフィックスで撮影したとき、ほとんど静止画のように見える10秒にも満たない映像に、風に吹かれる砂塵や音、その場の空気感が詰まっている。
この自然の営みはこれまで何度となく繰り返されてきたのだろう。そして、これからも変わらず繰り返されていくのだろうという過去と未来への予感がある。
この2作品が持つテーマやメッセージ、張り巡らされたメタファーは多様で多義的だ。ナレーションや登場人物のインタビューで語られる内容は抽象的かつ詩的で、ともすれば観客が置いてきぼりになりかねない。
しかし、この壮大で哲学的な映画が現代を生きる私たちに対して説得力を持ちえているのは、ひとえに悠久の時間に私たちを誘う映像の魔法によるものである。
第8作目 藤岡利充 監督作品『立候補』
選挙の泡沫候補に注目が集まりはじめたのは、いつからだろうか。
外山恒一氏の東京都知事選における伝説的な政見放送が2007年。YouTubeやニコニコ動画などで見た人も多いだろう。
昨年末に発表された第15回開高健ノンフィクション賞を受賞したのは、マック赤坂をはじめとする泡沫候補たちの選挙活動を追った畠山理仁氏のルポ『黙殺 報じられない「無頼系独立候補」たちの選挙戦』だった。
なぜか私たちは、勝てない戦に挑む人たちから目が離せないらしい。
今回取り上げる作品もまた、泡沫候補者たちに迫ったドキュメンタリー作品、『立候補』である。
本作の公開は2013年。
2011年の大阪府知事選挙に出馬したマック赤坂らの密着ロケを中心に、外山恒一や羽柴秀吉など、もはや伝説(?)となった泡沫候補者たちにもインタビューして「なぜ彼らは立候補するのか?」という疑問に迫ったドキュメンタリーだ。
選挙は、被選挙権がある年齢に達すれば誰でも立候補できる。しかし、一定の得票数がなければ供託金を没収されてしまうというルールがある。その金額は、遊び半分で出馬するにはそれなりに高額だ。
彼らはリスクを負ってまで、なぜ立候補するのか。
しょせん目立ちたがり屋たちの「金持ちの道楽」なのではないか?
そうした疑問を持つ人たちは、ぜひ本作を見て欲しい。
「泡沫候補」を一括りにするな
冒頭、マック赤坂が選挙事務局に対して「マスコミが私のような候補をほとんど取り上げないのは選挙違反ではないか」という趣旨の主張をするシーンがある。
その表情は真剣そのもので、この作品はマスコミに取り上げられない泡沫候補たちの、それでも「勝ちたい」という気持ちに迫った熱いドキュメンタリーになるだろうと身構えた。
しかし、その期待はある意味、裏切られた。
本作が白眉なのは、マック赤坂のような目立つ泡沫候補だけではなく、2011年大阪府知事選に出馬していた無名の候補者たちにもカメラを向けていることだ。
彼らの活動を見ると、本当に当選する気があるのか疑問が湧いてくる。街頭で辻立ちを行っているときに昔の友人と会い、「これだけでも供託金を払った価値がありますよ」と屈託なく笑う候補者。家にこもり、一切選挙活動をしない候補者もいた。
なぜ彼らが立候補するのかという疑問は深まるばかりだ。
ただ、彼らには泡沫候補という言葉で括れない多様さがあることを本作は教えてくれる。
泡沫候補というと強烈なキャラクターを思い浮かべがちだが、実は色々な人が、それぞれの思いで無謀な挑戦をしているのだ。
もちろん、ほとんど具体的な政策を持たない彼らに政治を任せようなどという気は微塵も起こらない。
しかし、彼らの自由な挑戦は
「本来、政治や選挙は誰のものなのか?」
「政党など既存の勢力や組織に属さなければ勝てない選挙などおかしいのではないのか?」
という極めてシンプルな問いに、半ば強引に立ち返らせてくれる。
やや好意的に捉えれば、あえて茶番のようにふるまう彼らの選挙活動は、既存のマスゲームと化した選挙戦に対して「一体どちらが茶番なのだ?」という痛烈な皮肉とも取れなくはない。
「アンチ・ヒーロー」が迎える大団円
本作にはさまざまな泡沫候補者が登場するが、主人公はマック赤坂だ。数々の選挙に立候補しては大差で敗れてきた、日本で最も有名な泡沫候補者だろう。
大阪府知事選で、彼は他の泡沫候補者に比べて少なくとも熱心に選挙活動をしている。
では、本作がマック赤坂の選挙活動を逆境にめげずに戦う男の美談として描いているかと言えば、全くそうではない。
カメラの前でマック赤坂は「鬼ころし」を飲みながら無茶苦茶な演説や踊りを披露する。それだけならまだしも、公職選挙法をたてに数々の迷惑行為を働き、警察が来ると「選挙妨害だ!」と喚く。
正直に言って、僕はマック赤坂という男が以前より嫌いになった。
「勝ちたい」という気概は感じるものの、ひたすら空回りしている。
圧倒的な強者(このときは松井一郎候補)を前に、どんな手を使ってでも目立ち、一矢報いようとする男の戦いは、それなりにカタルシスがある。
ただ、それでもやはり僕はマック赤坂に感情移入できなかった。
この作品をどう観たらいいのだろうか…と悩んでいたところ、監督はラストにとんでもないシーンを持ってきた。
選挙は、実に多くの人を巻き込む一大プロジェクトである。
マスコミは候補者の人柄などを伝える際に、選挙活動を支える家族にスポットを当てるのが定番だ。ただ、泡沫候補者はまさに「黙殺」されているため、その家族に光があたることはこれまでなかった。
しかし本作は、マック赤坂の息子の戸並健太郎氏にもカメラを向けていた。
彼は父親の選挙にほとんど関心が無い。
むしろ、その奇行に悩まされ、選挙活動に反対してきた人物だ。
おぉ、やっと感情移入ができるまともな人間が出てきた…と思った。
そんな彼が、2012年に行われた東京都知事選でマック赤坂の応援に駆けつけた。
彼らは、対立候補の応援に駆け付けた安倍首相と国旗を持った支持者たちによる「帰れコール」に囲まれていた。
マック赤坂はこんな状況でも、相変わらずへらへらしている。
そんなとき、突然、息子の健太郎氏が「帰れコール」をしていた群衆に必死の形相で食ってかかった。
「こっちは1人で戦ってんだよ!」
「てめーらにできんのかよ!」
おそらく場所は夜の秋葉原だろう。
スポットライトに照らされる、国旗を持った男たちと立ち向かう健太郎氏の図。天安門事件で戦車に立ちはだかった「無名の反逆者」をほうふつとさせるドラマのようなワンシーンに、思わず目頭が熱くなった。
その様子を「はっはっ」とから笑いしながら、それでも嬉しそうに見守る父親。
誰からも理解されないアンチ・ヒーローのマック赤坂だったが、自分を忌み嫌っていたはずの息子が最後、道化を演じ決して本音を口にしない父親の思いを代弁しながら敵陣に突っ込んでいく。
ドキュメンタリーのラストにしてはあまりに出来すぎなくらいの、屈指の名シーンだ。そしてこの作品のメッセージを端的に表現している。
本作は泡沫候補者たちの選挙活動をありのままに描く。その抑制が非常に優れている。どれだけマック赤坂が破天荒でも、「僕たちはマック赤坂を笑えるのだろうか?」と思わず考えさせられる強度がある。それが本作の持つテーマを広く深くさせている。
「てめーらにできんのかよ!」という言葉は、僕たちひとりひとりに鋭く突きつけられている。
第7作目 ブライアン・ハーズリンガー 監督作品『デート・ウィズ・ドリュー』
今回は、このブログでは初めてのコメディタッチのドキュメンタリー作品、『デート・ウィズ・ドリュー』。
まず、この作品を日本でDVD化してくれてありがとう!夢を追いかけるすべての人にオススメする傑作です!
本作は、日本では2006年公開の作品。
6歳の頃からハリウッド女優のドリュー・バリモアに憧れ続けていたブライアン監督が、クイズ番組で獲得した1100ドルを軍資金として、なんとかドリューとデートしようと奮闘する姿を描いたセルフ・ドキュメンタリーだ。
タイムリミットは、家電量販店で購入したビデオカメラの返品期限である1か月。経費削減のための苦肉の策ではあるが、これが仕掛けとして効いていて、刻々と迫るタイムリミットにハラハラしながらブライアンを応援している自分に気づく。
まるで大学生が学園祭のノリでつくったような作品だが、「6次の隔たり」を地で行き次々と大物映画関係者を巻き込んでいくスケールの大きさと、目的は「ドリューとデート」というくだらなさのギャップがたまらない。
アマチュアリズムのいいところを詰め込んだ作品だが、もしいまブライアンが20代だったら、人気YouTuberになっていたかもしれない。
2,3分の動画を量産するのではなく、これくらい腰を据えて「やってみた動画」をつくるYouTuberが出てきてもいいと思う。
愛すべき「さえない男」ブライアン
本作の最大の魅力はなんといってもブライアン監督のキャラクターだ。
イケメンに見えなくもないのにどこか垢ぬけず、喜怒哀楽の表情が豊かでとにかく目がキラキラしている。例えていうと、ジム・キャリーが演じたらハマりそうな男性だ。
彼がその生来の明るさと無鉄砲さで、少しでもドリュー・バリモアと繋がりのある人たちにアポを取りまくり、彼女が出演する映画の脚本家から通っているエステ店の店員にまで突撃していって本人にデートを申し込めないかと模索する。
特に、映画の予告編によく起用される声優がこの企画を面白がり、本作の予告編をタダで作ってもらうくだりには腹を抱えて笑った。また、自称ドリュー・バリモアと似ている人を募ってオーディションし、デートの予行練習に付き合ってもらうシーンも最高だ。
「これは法に触れるのでは!?」というきわどいシーンもあるが…それは映画を観て確認してほしい。
ブライアン監督、当時は映画業界で職にあぶれていたようだが、企画力は抜群である。
(ちなみに撮影と並行して就活しており、無事制作会社に就職する)
構成も1か月というタイムリミットの仕掛けが効いていて「24」的な面白さがあり、海外コメディドラマのような小気味のいいカット割りと軽快なテンポ感が楽しい。
なにか進展があるとドライブしながら歌いだすブライアンがカワイイ。
ぶっちゃけ、見ようによってはアイドルにガチ恋してしまう迷惑なファンそのものだが、なぜかみんなブライアンを応援してしまう。どんな大物映画関係者でも、いつのまにかブライアンのペースに巻き込まれてしまう不思議な魅力がある。
ハリウッドという街は、夢を追いかけるものを決して笑わないのだ。
ブライアンが愛したドリューはやっぱり素晴らしかった
最後、ブライアン監督はドリュー・バリモアとのデートに成功する。
彼女がブライアン監督と会うことを決意した理由が素晴らしい。
「少年の心をいつまでも忘れない。それは私のポリシーと合うわ」。
そのデートのブライアンは本当に楽しそうで、夢を叶えた男の充実感がみなぎっている。
デートの予行練習なんて必要なかったのでは?と思うほどすぐに打ち解けて会話は弾み、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
2人はまるで、やっと見つけた同志と出会ったかのようだった。ブライアンはクライマックスでようやく、この映画の主演女優を登場させることに成功した。
別れ際、ドリューは「いい映画にしてね」とブライアンに声をかける。それはドリューが、ブライアンを一人の優れた映画監督として認めた瞬間だった。
ブライアンは本当にドリューとデートしたかったのか?という問いは、この際、脇に置いておこう。
この映画は、無名の映画監督が本当に面白い映画をつくるために、ハリウッドスターの出演を口説き落とすサクセスストーリーだったのかもしれない。
これほど真っ直ぐに「アメリカンドリーム」を感じさせてくれる映画は、そうそうない。
しかも、これはフィクションではなくドキュメンタリーなのだ。
ドキュメンタリーでしか味わうことのできない「ミラクル」がたくさん散りばめられている。
やっぱり映画は僕らに夢を見させてくれるし、ドキュメンタリーは素晴らしい!
第6作目 ハイディ・ユーイング&レイチェル・グレイディ 監督作品『ジーザス・キャンプ』
このブログで取り上げる初の海外作品。
今回はハイディ・ユーイング&レイチェル・グレイディ監督の『ジーザス・キャンプ ~アメリカを動かすキリスト教原理主義~』だ。
ジーザス・キャンプ ?アメリカを動かすキリスト教原理主義? : 松嶋×町山 未公開映画を観るTV [DVD]
- 出版社/メーカー: アニプレックス
- 発売日: 2011/01/26
- メディア: DVD
- 購入: 6人 クリック: 102回
- この商品を含むブログ (20件) を見る
本作は2006年にアメリカで公開され、第79回アカデミー賞のドキュメンタリー映画賞にノミネートされている。(この年の受賞作はアル・ゴア監督の『不都合な真実』)
それほどの話題作にも関わらず、当時日本では劇場公開されていなかったが、TOKYO MXで放送されていた、映画評論家の町山智浩がドキュメンタリー映画を紹介する番組『未公開映画を観るTV』で取り上げられ、その後アップリンクの配給で公開、DVD化もされた。
アカデミー賞ノミネート作品ですら日本では劇場公開されないわけで、ドキュメンタリーというジャンルがいかに不遇なのかを物語っている。
本作は、キリスト教原理主義者(いわゆる福音派)の女性が、子どもたちを徹底的に宗教教育するサマー・キャンプを取材したもの。当時のブッシュ政権を支えた米国保守派の隠された一面をクローズアップした、かなり挑戦的な作品だ。
「子ども×宗教×政治」という、面白くないはずがない見事な組み合わせで、衝撃的なシーンの連続に90分間口をあんぐり開けたまま観てしまう。
これは「タブー」なのか?
キリスト教福音派のサマー・キャンプはアメリカでは一般的に行われているらしい。しかし、日本人の感覚からすると「カルト宗教」にしか見えないだろう。
中絶や同性婚の禁止など共和党的な価値観を刷り込まれ、盲目的に従う子どもたち。さらに、学校ではキリスト教の教えに反する進化論を学ばせられるからと、子どもを学校に通わせず自宅学習をさせるという徹底ぶりだ。
キャンプで号泣した子どもたちがイエス・キリストの名前を絶叫しながら意味不明の懺悔をするシーンは、「これ本当に公開して大丈夫なのか…?」と心配になる衝撃映像となっている。
ただ、こうした過激なキリスト教原理主義者が、アメリカではマイノリティというわけではない。作品の中でも言及されているが、キリスト教福音派はアメリカの人口の4分の1を占めており、当時のブッシュ政権の主要な支持母体のひとつだったのである。もっと穏健なキリスト教信者でも、信仰心から中絶や同性婚に反対する人は多いだろう。
そう考えると、彼ら過激派にとって、このキャンプは別にタブーでもなんでもない。
実際、キャンプを主催するベッキー・フィッシャーは喜々としてインタビューに応じ、「神のために死ねる立派な子どもたちを育てる」という炎上不可避なトンデモ発言を平然としている。
彼らをカルト宗教だと思うのは私たちの感覚であり、当の本人たちはキャンプでの洗脳や「GOVERNMENT」と書かれたコップをハンマーで割ることを信仰上不可欠なものと考えているわけだから、特に取材を断る理由もないのだろう。
剃髪し座禅を組む寺の修行も欧米からすればユニークだろうが、この様子を取材して公開することがタブーだと思っている日本人は、あまりいないと思う。
また、本作のなかでは福音派が当時のブッシュ政権を強烈に支持する描写も見られる。これも政教分離が一応の建前となっている日本からすれば、異様な光景だ。
もし日本で「政治と宗教」をテーマにしたドキュメンタリーをやるとすれば、相当の覚悟がいるはずだ。
ドキュメンタリーというジャンルは、その国やコミュニティ固有の問題意識、または文化的背景に根差していればいるほど、優れた作品と言える。
海外のドキュメンタリー作品を観るとは、自身の価値観を強く揺さぶられる豊かな体験であると改めて思う。
福音派はこの映画をどう観たのか
とはいえ、本作は徹頭徹尾、福音派に否定的な立場を明確にして構成されている。
キャンプの様子は、どれも計算されつくしたアングルでトランス状態に入った子どもたちの表情を捉え、過激な洗脳の異様さをありありと映し出す。ナレーションはないが、監督自身の思想は、リベラル派で知られるアメリカのラジオパーソナリティに代弁させる形で進んでいく。優れた構成で、強く明確なメッセージを打ち出している。福音派の異様な実態を暴き当時のブッシュ政権にNOを突きつけようという使命感に溢れた、極めて(欧米的な意味での)ジャーナリスティックな作品だ。
キャンプを取材する際、こうしたスタンスを事前に監督が相手に伝えていたかは知る由もない。福音派にとってキャンプをタブー視されるのはむしろ心外だろうが、はっきりとカルト宗教のように扱われることを知っていたら、果たして取材を受けたのかは疑問だ。だまし討ちのように取材を始めたのかもしれない。
ただ、こうも思う。
公開された映画を観て、福音派の人たちはこう考えたのではないだろうか?
懺悔をしながら泣き叫ぶ子どもたちは、信仰を深めようと模索する立派な信者であり、その雄姿をぜひ映してもらいたい。
ベッキー・フィッシャーのインタビューは、キリスト教福音派の思想を映画というメディアで広く伝えるうえで格好の宣伝になる。
我々のキャンプの素晴らしさを見れば、リベラル派のラジオパーソナリティの吐く妄言がいかに空疎かがよく分かるだろう。
この作品は我々にとって最高のプロパガンダ映画だ―。
これは、あくまで想像に過ぎない。ただ、そんなに間違った解釈とも思えない。
アメリカの人口の4分の1を敵に回すような作品が公開できて、さらにアカデミー賞にノミネートまでされるなんて、アメリカはなんて懐の深い国なのだろう!と僕には思えないのだ。
むしろ、こんな映画が目立ったハレーションもなく公開できてしまうという状況が、僕にアメリカという国の内にある深い断絶を想起させるのである―と書くと、斜に構えすぎだろうか?
第5作目 平野勝之 監督作品『監督失格』
2011年に公開され、ある衝撃的なシーンが話題となった。
プロデューサーは、なんと『エヴァンゲリオン』の庵野秀明である。
ジャンルとしては、いわゆるセルフ・ドキュメンタリーに位置づけられるだろう。
元恋人のAV女優・林由美香の死に直面し、絶望の淵に立たされた平野監督自身の喪失と再生を描いた作品だ。
前半は、当時アダルトビデオ業界で活躍していた平野監督と由美香が東京から北海道への自転車旅行に挑戦する伝説的なロードムービー『由美香』(企画段階のタイトルは「ワクワク不倫旅行」というもので、ハメ撮りを中心とするアダルトビデオになる予定だった)のダイジェスト版で構成され、不倫相手かつ仕事仲間でもあるという2人の複雑な関係性が描かれる。
後半は、由美香の死をきっかけに絶望する監督自身と由美香の母親(由美香ママ)を中心に、由美香との過去に決着をつけようとする葛藤が描かれている。
冒頭書いたように、本作には衝撃的なシーンがある。
由美香の遺体を平野監督が発見してしまう場面だ。
平野監督が数年ぶりに由美香を題材にした作品を制作するため自宅を訪れた際、応答がないことを不審に思い由美香ママと弟子を連れて鍵を開け中に入るのだが、平野監督はそこで由美香の遺体を見つけてしまう。弟子に預けたカメラは偶然にも録画状態のまま無造作に玄関先に置かれ、戸惑う平野監督や絶叫する由美香ママの姿をはっきりと記録している。
平野監督はこのあと、5年間カメラを握ることはなかった。しかしあの時、偶然にもカメラが回っていたことが「由美香の意志」であるように感じ、『監督失格』をつくるために立ち上がる。
この作品は、もちろん恋愛映画のように観ることもできる。愛する人の死は普遍的なテーマだが、本作はドキュメンタリーだけに胸に迫る切なさは凄まじいものがある。
一方、平野監督自身が述懐するように、由美香との関係はカメラがあって初めて成り立つものだったという苛立ちも、作品から感じられる。「監督と女優」という立場を超えてロマンを追い求める平野監督と、あくまでプロフェッショナルとして女優であり続けようとする由美香。このすれ違いが、とてつもなく切ない。
この作品は、現実とフィクションをカメラで傍若無人にひっかき回してきた平野勝之という男が、由美香とその死という圧倒的な現実を前に一度敗北し、そこから這い上がって監督としての「業」を取り戻していく喪失と再生の物語である。
本作を語る前に、平野監督のインタビューや関係者の座談会で構成された『監督失格まで』を参考に、彼のキャリアを追いたい。
「ポストダイレクトシネマの騎手」からAV監督へ
平野監督は1980年代、自主制作映画の監督としてキャリアをスタートさせる。
手持ちの8mmフィルムカメラという特性を生かした監督自身が役者と一緒に暴れまわるものや、内省的な日記映画など実験的な作品が多く、自主製作映画を広く紹介する「ぴあフィルムフェスティバル」では異例の3回連続入選を果たしている。
(ちなみに同時期にぴあフェスで活躍した監督には『愛のむきだし』の園子温や、『野火』の塚本晋也監督がいる)
この頃、平野監督は「ポストダイレクトシネマの騎手」と評されていた。
ダイレクトシネマとは、撮影と同時に録音し、ナレーションを入れずに事実をそのまま伝えることなどと定義され、フレデリック・ワイズマンに代表される古典的なドキュメンタリーの手法だ。
これに対し、ポストダイレクトシネマとは、明確な定義はないが、一般的に「映画が作者の意図を超えて、カメラの前で暴走し始めるような作品」とされるようだ。
ふつうフィクション映画では、役者がカメラを意識しながら演じるなどという状況はあり得ない。これに対しポストダイレクトシネマでは、役者がカメラがないかのように振る舞い演技するということ自体に疑義を唱え、フィクション映画ではあるものの、監督自身が被写体に向かって積極的に働きかけを行っていく。監督やそのカメラに触発された役者は、これに対し生のリアクションを取らざるを得ない。
そうしてフィルムに収められた映像は、フィクションでありながら、ドキュメンタリー(ダイレクトシネマ)でもある。
このフィクションと現実、主観と客観がないまぜになる状況が、ポストダイレクトシネマの核心だ。
ここまで書けば、平野監督がなぜアダルトビデオ業界に進出したかが分かるだろう。
AVにおけるセックスは当然フィクションであり、女優は演技をしている。しかし、生理反応である性的快感は、まぎれもない本物だ。さらにAV女優たちはカメラで撮られている状況に触発され、どこまでが演技でどこからが快感なのかが曖昧なまま、プレイがエスカレートしていく。AVとはもともと、ポストダイレクトシネマ的状況で作られる作品なのだ。
このころのAVは、カメラの小型化に伴い、カンパニー松尾監督に代表される「ハメ撮り」という手法が台頭してきた時期でもある。監督による女優との関係性そのものへの介入ろいう手法が、AV業界でも取り入れられてきた。
その舞台で平野監督は、次々と実験的な「抜けない」AVを発表していく。
とてもここで書けるような内容ではないが、重要な作品のタイトルだけ挙げるとすれば
『暴走監禁逆ナンパたれ流しドライブ 水戸拷問~大江戸ひき廻し~』、
『自力出産ドキュメント あなたの赤ちゃん生ませて下さい ザ・タブー2』、
『アンチSEXフレンド募集ビデオ』、
そしてデビュー作でもあり由美香と出会うきっかけとなった『由美香の発情期』だろう。
タイトルだけでも十分ヤバさが伝わると思うが、もし興味があれば先ほど挙げた『監督失格まで』に内容が詳しく書かれているので、ぜひ読んでみてほしい。
自分と被写体を極限まで追い込み、フィクションという枠組みから溢れ出る人間の本質にカメラを向け続けてきた平野監督にとって、タブーの少ないAV業界は楽園だったのだろう。
そのなかでも、監督の働きかけに対してヴィヴィッドなリアクションを返してくれる最も相棒に相応しい女優が、由美香だった。
カメラを介した関係性
「僕と林由美香は、カメラという第三の人格を通してだけ、唯一結ばれた関係だったのだ」と、『監督失格』のブックレットで平野監督は語っている。
本作の前半を構成する『由美香』では、徐々に自転車の旅にのめりこんでいく平野監督と、旅に全くj楽しみを見出さずメイクを気にしながら旅を続ける由美香とのすれ違いが描かれる。
そのすれ違いが原因で喧嘩をしてしまうのだが、平野監督はその場面でカメラを回すことを忘れてしまった。その直後、由美香に言われた一言が、「監督失格だね」だったのだ。
この言葉は二重に切ない。作品に私情を挟み、監督としてカメラを回すという最大の役割を放棄したという後悔がひとつ。もうひとつは、撮影を忘れるほど本気で喧嘩をしているのに、相手はあくまで女優として作品を第一に考えているというドライさだ。
これまで散々カメラでフィクションを犯し現実を抉り出してきた男が、「由美香」という現実を前に容易に敗北してしまった。
平野監督が由美香にこだわり続けたのは、カメラでねじ伏せられない(=作品に昇華することのできない)現実に初めて出会ったという驚きと感動があったからだろう。
なぜ『監督失格』なのか
これほど名は体を表す作品もない。
平野監督が『監督失格』を制作したのは、偶然にも「由美香の死」が残ってしまったからだ。
遺体を発見したとき、平野監督はカメラを持っていた。しかし、それを由美香の遺体に向けることはできなかった。そのことが、由美香にまた「監督失格だね」と言われている気がして仕方がなかったという。
映画評論家の北小路隆志は、由美香の死のシーンを「カメラの非情かつ寛容な機械的リアリズムがここまで明白に画面に刻まれる瞬間も稀である点で映画史に残る偉大なものである」と指摘している。
このシーンでカメラは無造作に床に置かれ、広角かつフィックス(固定)で撮影されており、カメラの「機能としてのまなざし」を最も感じさせる画角となっている。
平野監督はここで、改めて機械としてのカメラの客観性、暴力性とも対峙せざるを得なくなる。由美香との戦いに負け、自分が手足のように使ってきたカメラにも、作家として手に負えない圧倒的な現実を突きつけられた。
平野監督が自信を喪失し、このあと5年もカメラを握れなかったという心境は推し量るにあまりある。
しかし、監督は再びカメラを手に取った。
「由美香」と、その「死」という現実を、監督として作品に昇華しなければ、二度と立ち上がれない。
本作のクライマックス。
どうしてもラストシーンが決まらず悶々としていた平野監督は、「自分は由美香とお別れしたくないのだ」と気づく。また『監督失格』ではないか。自分の弱さに気づき号泣するところを撮影したあと、カメラを持ったまま自転車に乗って「いっちまえ」と叫びながら街中を疾走する。奇しくも、平野監督の初期作品『狂った触覚』と同じように。すべてをゼロにリセットするかのように。
このシーンがあまりにも青臭く、嘘っぽく観える人もいるかもしれない。
ただ僕は、そう見えてもなお、なんとか由美香との思い出を映画に昇華しなければならないという執念がこもっている名シーンだと思う。
このとき平野勝之はようやく、現実をねじ伏せてやろうという映画監督としての業を取り戻したのだ。
平野監督は多くのフィルムに焼き付いた現実の切れ端を、なんとか映画に押し込めて由美香とお別れすることに成功した。これはひとつの通過儀礼だったのだろう。
由美香は死してなお、平野監督に監督としての資格を問い続けた。
『監督失格』ほど、映画監督であることの悲哀に向き合った作品はない。
これはただのロマンチストな男の喪失と再生の物語ではない。
ある映画監督の、喪失と再生の物語なのである。
第3,4作目 森達也 監督作品『A』『A2』
今回は森達也監督のデビュー作にして代表作『A』と、その続編である『A2』の感想をまとめて書くことにした。
どちらも「オウム真理教」という題材を扱っており、2作を通じて森監督の視点の変遷とテーマの深化が伺える。
1998年に公開された『A』は、オウム真理教のメンバーが地下鉄サリン事件を起こした直後の1995年から撮影が始められ、事件の後始末に追われる荒木浩広報部長を中心に教会の内側からマスコミや社会との関わりを描いた作品だ。
『A』から4年後の2002年に公開された『A2』は、全国各地でオウム関連施設からの退去を余儀なくされた信者たちと地域住民との軋轢と融和を描く。
ドキュメンタリーは嘘をつく
森達也監督は、僕がこのブログを書くきっかけとなった本『ドキュメンタリーは嘘をつく』の著者でもある。
なぜ『ドキュ嘘』を読むに至ったかについては、以下の過去記事を参照してほしい。
僕はテレビジャーナリズムの片隅に身を置く人間だ。
しかし、この本を読んで自分のドキュメンタリー像が大きく揺らいだ。
森監督の整理によると、どうやら僕が作っていたものはジャーナリズムではあるがドキュメンタリーではないらしい。
では、ドキュメンタリーとはなんなのか。
それを「カメラ」という異物の存在、フィクションとノンフィクションの境界、撮影者と被写体の関係性などから考えてみたいという思いから始めたのが、このブログである。
「A」-客観・公正・中立
森監督は、「公正中立・そして不偏不党なドキュメンタリーなどあり得ない」と常々主張し続けている。
ドキュメンタリーとは撮影のカメラワークから編集まで徹底的に作為の産物であり、事実という破片を寄せ集めて監督の世界観を表現する営みだ。
先に挙げた著書やインタビューなどで執拗に繰り返されるこの主張は、テレビディレクター時代に「公正中立」という価値観を刷り込まれた自分自身への反動でもあるだろう。
森監督はデビュー作となる『A』に、己の反骨精神や思想を存分にぶつけたはずだ。
しかし、同じくオウム真理教を題材にした『アンダーグラウンド』の著者、村上春樹による『A』のレビューは、こんな書き出しから始まる。
真摯に情報を表現しようとするもの=ジャーナリストにとってもっとも重要なことのひとつは、そこにある「素材」を、情報としてそのまま公正に伝えることである。
(中略)『A』とそれに続く『A2』において、森監督はその原則に従い、可能な限り制作過程における色づけを排し、判断を保留し、そこにある状況をカメラの目で率直に切り取り、ありのままに伝達しようとつとめているように見える。
森監督にとって、これほど屈辱的な評価はないようにも思える。
では、村上春樹は『A』について決定的なミスリードを犯しているのか?
そうではない。確かに本作は、オウム真理教という戦後最大のテロリスト集団を描くうえで、客観的で公正中かのように見えてしまうのだ。
『A』において森監督の関心はただ1点、なぜ彼らがオウム真理教に惹かれ、信者になったのかということにあった。それは、オウムと名の付くものであれば徹底的に批判され排除された当時の日本では、耳を塞ぎたくなるような「加害者の論理」だっただろう。
だが森監督には、その「論理」こそが、あの事件から学ぶべきことだったという確信がある。「僕らはあの事件からまだ何も学べていない」という強い疑問が、森監督を突き動かしていたのだ。
とりわけ有名なシーンがある。
警察官がオウム信者の前に立ちはだかり、突き飛ばされたふりをして言いがかりをつけ公務執行妨害で逮捕するという、いわゆる「転び公防」を撮影した場面だ。
この行為は、森監督のカメラも含む公衆の面前で繰り広げられた。
警察は、マスコミが作り出す「オウム憎し」の世論を後ろ盾に、恥ずかしげもなく違法捜査を行っていたのだ。当時の「正義」や「公正中立」は、「転び公防」でオウムの信者をひとりでも排除しようという社会や警察側にあった。
『A』が客観的で中立のように見えるのは、誰より森監督自身が「客観的、中立などというのはあり得ない」と確信していたからだ。つまり、オウム側から見た現実があるはずだという当たり前のことに気付いていたのが、森監督だけだったという単純な理由である。
カメラ越しに森監督と朗らかに会話する信者たちは、どこにでもいる「普通の」人たちと何も変わらない。
本作の主役ともいえる荒木広報部長は、マスコミの矢面に立たされても声を荒げることもなく論理的に対応し、誰もが応援したくなるような実直な若者にすら映る。むしろ好奇心をむき出しにしたマスコミや、感情に任せて罵声を浴びせるオウム施設の周辺住民のほうが、よほど狂気のように見える。
だが、これも森監督の作為により構成された、一方的な現実に過ぎない。
オウム信者は「普通の」ひとたちなのかもしれない。
観客がそう感じた直後、カルト宗教としか言いようのない独特の修行に打ち込む信者たちのシーンが挿入される。観客に持たせたイメージを、直後に覆す。こうした手法は、『FAKE』のラストカットにも見られる森監督の常套手段だ。
一連の事件報道で根付いた、オウム真理教は絶対悪だという「公正」で「中立」な価値観。
それに揺さぶりをかけるのが、『A』で森監督が企てた試みだ。
「A」-状況を切り取る、意味をつなげる
村上春樹が抱いた「客観的」という『A』のイメージは、カメラワークやカットのつなげ方からも伺える。この作品では、もともと森監督が持っているジャーナリストとしての気質が見え隠れしている。
ひとつは、カメラと被写体の距離感だ。
『A』における森監督のカメラは、人ではなく状況を中心に切り取る。被写体が何をしているかという行為に焦点を当て、短くカットをつなげていく。
ひとつのカットに意図があり、作為がある。カットの連なりに意味が溢れている。
前回取り上げた想田和弘監督の『精神』は、人や表情にフォーカスし、カットの長回しを多用することによって、「何をしているか」と同時に「何をしていないか」にも注目してシーンをつなげていた。
「撮れてしまったもの」に意味を見出す想田監督と、作為を徹底する森監督は、方法論として好対照を為している。
また、『A』は地下鉄サリン事件後の施設退去や会見など、刻々と変化する教会の状況を出来事ベースで追いかけていく。そのため、マスコミと森監督が鉢合わせる場面も必然的に多くなる。ドキュメンタリーというより、ニュースの発想に近いのだ。そこには森監督のテレビディレクターとして培った勘と、なるべく多角的にオウムを描きたいというバランス感覚が働いている。
『A』で森監督は、次から次へと教会の周辺で起きる出来事を必至に追いかけてシーンを繋げようとするあまり、どうしても意味の連なりから逃れられないように見える。それは良質なジャーナリズムの条件ではあるが、果たして森監督の目指すドキュメンタリーなのだろうか。
こうした森監督の製作姿勢が、本作をオウムの本質から上滑りさせているように見えて仕方ないのだ。
「A2」―状況から人へ
『A』が荒木浩を中心に時系列で出来事を追いかけるロードムービー的な作品だったのに対し、『A2』は信者や住民たちとの交流を描いた日常系ともいうべき作品だ。
『A2』は『A』から2年半後に撮影しており、相変わらずオウム真理教に対する世間の風当たりは強いものの、当時の「オウム憎し」という空気は少しずつ薄れつつある。
森監督は本作のなかで、オウムの施設を退去させようと信者を監視していた地域住民が、監視する・される関係を続けるなかで親睦を深めていくシーンに多くの時間を割いている。若く真面目そうな信者に対して、ひとつのことを極めようとする姿勢を応援したいという女性まで登場するのだ。
『A2』で森監督のカメラは、信者と住民たちとの何気ない交流を丁寧に捉えていく。
一見すると、ひとりひとりの人間が向き合えば、宗教や過去の悲惨な事件を乗り越えてお互いを理解しあうことができるというメッセージのように思える。
しかし、ほのぼのとした信者と地域住民のやりとりを描いた直後、森監督はその信者に「オウムの事件をどう思っているか?」と尋ねる。(なんという作為だろう!)
信者はこともなげに、「私も尊師に命令されていたらやっていたと思います」と答えるのだ。森監督は、この答えを言わせたかったに違いない。
理解など一切できていない。そこにあるのは、むしろ圧倒的な断絶なのだ。
そこには、人間の本質や宗教の底知れぬ深淵が顔をのぞかせている。
作品を観て、私たちは理解に苦しむ。なぜそこまでオウム真理教を盲目的に信じられるのかと、信者たちのまっすぐな瞳に何度も問いかけたくなる。
結局、分からないのだ。
作品に登場する信者らは、マスコミが事件の背景を説明するときに使いたがる「孤独」や「心の隙間」などとは無縁である。信仰に因果関係など、なにもない。
『A2』は、私たちがオウムについて分かった気になることを徹底的に拒絶する。
『A』で森監督が企てたゆさぶりをより先鋭化させた結果、日常と狂気の境界線はより曖昧になり、理解不能な現実を前に私たちは恐怖すら覚える。
「A2」―世界はもっと豊かだし人はもっと優しい
ただ、森達也はこの作品に以下のようなコピーをつけている。
「世界はもっと豊かだし人はもっと優しい」
それは、分かりあえないことを抱きしめようという、森監督が『A2』に込めた最大のメッセージだ。
『A2』は、オウム真理教の後継団体「アレフ」の広報部長になった荒木浩の挑発的なインタビューで幕を閉じる。森監督は、なぜオウム真理教をアレフという名前に変えるのか。なぜ一連の事件について謝罪し、賠償金を払うことで世間と和解しようとするのかと厳しく問いただす。
森監督がオウムに並々ならぬ関心を抱いていた理由のひとつは、彼らがオウム真理教の巻き起こした一連の事件について、謝罪できないということだ。しないのではない。できないのだ。
尊師の教えは絶対だと信じてきた信者たちにとって、事件をどう受け止めていいのかわからない。なにをどう反省すべきかわからないから、適当な気持ちで謝罪はできない。それは森監督の目に、不器用だが誠実な態度だと映った。
だからこそ事件が総括できていないのにも関わらず、安易に世間との融和を図ろうとするアレフの方針が許せなかったのだ。
世の中には同じ物差しで測れない異物が存在する。それを認めずに隠ぺいすることは、本質的な解決にはならない。
公正中立という立場を措定すれば、オウムのような異物を排除することになる。それは結果的に、テロ集団を社会がつくりだすことに繋がるのではないか。普遍的だと信じられてきた欧米の自由・平等・平和という価値観が、ISを生み出したように。
異物を、異物のまま受け入れよう。
それが豊かで優しくあろうとする森達也監督の、社会に対するプロテストであり、本作の主張なのだ。
『A2』は私たちとオウムとの断絶を描くが、受容の萌芽は確かにあった。
『A』から『A2』を経て森監督は、自身のドキュメンタリー像を完成させた。
この作品が客観的で中立でなくてなんなのだろうかと、改めて僕は言いたい。
第2作目 想田和弘 監督作品『精神』
今回の作品は、想田和弘監督の「観察映画」第2弾となる『精神』。
『精神』は、岡山県にある外来の精神科診療所「こらーる岡山」を舞台に、通院する精神病患者や診療所のスタッフ、ホームヘルパーたちの生活を淡々と描くドキュメンタリーだ。
患者に一切モザイクをかけず、「観察映画」という想田監督の代名詞ともいうべき方法論で撮られた映像は、健常者と精神障害者の境界を改めて問い直す作品となっている。
そして、誰もがどこか病んでいる私たちの心がふっと軽くなる、こころの処方箋のような映画でもある。
観察映画とは
想田監督は、自身のドキュメンタリー作品を「観察映画」と呼んでいる。
監督の著書『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』で具体的な方法論を列挙しているので、一部を抜粋・要約しよう。
- 被写体や題材に関するリサーチは行わない。
- 被写体と撮影内容に関する打ち合わせは原則行わない。
- 台本は書かない。事前にテーマを設定しない。
- 撮影、録音を原則監督ひとりで行う。
- 長時間、あらゆる場面でカメラを回す。
- ナレーション、説明テロップ、音楽を原則使わない。
- 長回しを多用して臨場感を大切にする。
このような方法論は、テレビのそれと真逆である。
テレビ業界では事前のリサーチ取材が重要で、どのようなストーリーが描けるか、それに合った画が撮れるか、インタビューはどんな内容になるかまで予め調べたうえで台本を書き、ロケはその内容に沿うように進められていく。
こうした手法は、視聴者に内容を分かりやすく伝えるという点では効果的だが、どうしても結論ありきの一方的な番組にならざるを得ない。
想田監督は元NHKの外部ディレクターであり、テレビ業界の慣習を知っているがゆえに、アンチ・テレビの方法論として観察映画というスタイルを採ったという。
一見すると観察映画は「事実をありのままに切り取る」ように感じるが、監督は「客観的や中立的ということではない」としている。
観察とは箱庭を天上からのぞき込むような特権的な視点ではなく、あくまで監督による主観的なものなのだ。
『精神』では特に、あえて患者と監督自身の会話を映像に残すことで、観察者と被観察者との関係性を強調している。(監督はそれを「参与観察」と呼んでいる)
観察映画は、観客が映画の中で起きることを主体的に観察して解釈できるよう、作品に多義性を残すことができるという。
結果的に『精神』という作品は、観察そのものが作品の重要なテーマを形づくっている。
「精神障害者」をどう見たらいいのか?
言うまでもなく、『精神』という作品は精神病患者という「見えないカーテン」の向こう側にいる人たちにカメラを向けることで、私たちのなかにある先入観や偏見を問い直す作品である。
しかし監督は、その「解釈」を作品中にあえて提示することをしない。
舞台となる「こらーる岡山」は、山本昌知医師が1997年に設立した精神科の診療所だ。
山本医師は70年代、精神病患者を閉じ込める閉鎖病棟の錠を外す活動を率先して行い、そのころから「当事者本位の医療」をモットーに活動している。「こらーる岡山」も当事者と議論しながら運営方針を決めており、患者から絶大な信頼を寄せられていることが作品からもうかがえる。
いわば、スクリーンに映し出された精神障害者をどう見たらいいのか戸惑う観客に対し、「圧倒的に正しい答え」を持っている人物である。
しかし、この作品には山本医師が自身の考えを話すシーンは一切、ない。
冒頭、カメラは長回しで病院に訪れた女性と山本医師のやりとりを追っていく。手首にはリストカットの傷があり、泣きながら「もう死にたい」と訴える女性に、観客は言葉を失い、どう言葉をかければいいのかと考えるだろう。おそらく想田監督自身、カメラを回しながら同じことを考えていたに違いない。
僕ならここで、診療が終わったあとの山本医師にインタビューをしたいところだ。
「彼女のような病気を持つ患者にどう接したらいいのか」「どういう方針で診察をしているのか」「私たちにできることはなにか」…
だが、それをすると私たちはすぐに、限りなく「答え」に近いものに辿り着いてしまうことになる。
想田監督は、撮影にあたり事前に精神病の勉強をしなかったという。「見えないカーテンの向こう側」を初めて覗いた戸惑いが、カメラワークの随所に感じ取ることができる。
監督自身、知らない、わからないがゆえに、丁寧に観察し、主体的に考えている。
私たちは監督自身の観察の結果(=作品)を追体験する形で、精神病の世界を覗きこむことになる。
その体験こそが、監督が観客に映画を通して提示したかったものなのだ。
モザイクをかけないということ
『精神』の最大の特徴であり挑戦は、登場する患者たちの顔に一切モザイクをかけなかったことだ。
モザイクは患者のプライバシーを守るためだけのものではない。もっと多くのものを覆い隠してしまう「甘い罠」である。
この作品を観ると、不思議なくらい健常者と精神障害者の境目が曖昧になる。いや、もともと曖昧だったのだ。私たちが知らなかっただけで。
「こらーる岡山」は民家を改装した診療所で、居間のような待合室で患者とスタッフが談笑していたりするため、さっきまでスタッフだと思っていた人が実は患者だったことに後で気づくこともある。
それは、モザイクがあれば決して起こりえない体験だ。
モザイクは、私たちが「観察」を始める前に、誰が患者なのかを浮き彫りにする。もし「人格障害で苦しむ田中さん(仮名)」などとテロップをつけられたら、観客はその人の仕草や言動のなかに、人格障害者の特徴を探さずにはいられないだろう。
精神科医の香山リカがDVDにコメントを寄せていたように、この作品は純粋に「人」を見ることができる映画だ。
だからこそ、僕は登場する患者の方々に強く共感できた。テレビではモザイクが覆い隠してしまうであろう患者たちの表情に、人懐っこそうな笑顔を見ることができた。目は口ほどに物を言うのだ。
結局のところ、みんな同じようなことに悩んだり傷ついたりしているということに、改めて気づかされる。
少しのはずみで、自分が患者側になることも十分あり得るのだという恐怖すら感じる。
ただ、撮影には相当神経をすり減らして臨んでいたことが、本作のメイキング本とも言える監督の著書『精神病とモザイク』で語られている。
精神病とモザイク タブーの世界にカメラを向ける (シリーズCura)
- 作者: 想田和弘
- 出版社/メーカー: 中央法規出版
- 発売日: 2009/06/17
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 6人 クリック: 71回
- この商品を含むブログ (26件) を見る
実際、撮影を許可してくれたのは、お願いした患者のうち1割程度だったという。(なお、監督は患者が自分で判断ができる状況であったのか山本医師に確認している)
いくら許可を得たとはいえ、トラブルの可能性は捨てきれないからモザイクはかけるべきだという意見もあるだろう。
著書やDVDでは、想田監督が出演者の方々と「私たちが映画に出た理由」をテーマに座談会をした模様が収録されている。
そこでは出演者たち自身が、リスクを負ってでも自分たちの病気や置かれている状況を分かってほしいと考えたことが語られている。
想田監督は、昨今のモザイクの乱用は患者の人権やプライバシーを尊重するためではなく、面倒なトラブルを避けてテレビ局などの現場が責任放棄するための道具に過ぎないと指摘している。この指摘は、とても重要だ。
精神障害者の顔にモザイクをかけているのは、病気ではなく撮影者のエゴなのだ。それは精神障害を「見えないカーテンの向こう側」、鍵をかけた閉鎖病棟のなかに閉じ込めることに他ならず、山本医師のモットーである「当事者本位」ともかけ離れている。
想田監督はモザイクを外すことで、精神障害者が疎外されていた映像というメディアのなかに「当事者」の居場所を取り戻したのだ。
観察映画が撮れたもの、撮れなかったもの
モザイクやテロップなどの「レッテル貼り」を避け、あらゆる先入観を廃して「人」をつぶさに観察する想田監督のまなざしが、精神障害者を隔てる「見えないカーテン」を消し去ることに成功した。
リサーチや打ち合わせしなかったからこそ、「撮れてしまった部分」もある。
例えば、藤原さんという女性が、自分の幼い娘を虐待で殺害してしまったことを語る場面。
作品のなかでも非常にショッキングで重要なシーンだが、もしこの話を事前にリサーチ取材で聞いていた場合、改めてカメラの前で話してもらうのは至難の業だろう。それに、カメラ越しにひしひしと伝わってくる「すごいものが撮れている」という現場の臨場感は絶対に再現できない。
実はこのシーンの使用を巡っては試写会で藤原さんが少しだけ難色を示すのだが、想田監督が丁寧に使用した意味を伝えることで理解を得ている。
作品の終盤、私たち観客が精神障害者に愛着と敬意を十分に抱き始めたころ、患者たちが自作の詩を朗読しながら笑顔で語り合うという牧歌的なシーンがある。
しかし、次のカットで雰囲気は一転する。土足のまま診療所に入ってきた患者の男性が勝手に電話を占有して役所に意味不明な電話を長時間かけ続けたあと、バイクに乗って乱暴に出ていく。そして本作に登場した3人の患者の写真と、「追悼」の文字。
「そう単純なものではない」という違和感を残すラストは、想田監督自身「これ以外あり得なかった」という見事な構成だ。
一方、観察映画が撮れなかったものもある。
先述した患者との座談会で、美咲さんという患者の女性が監督に「ごめんなさい、言っていいですか? こんなんじゃねえ(笑)」と語りかけるように、映像は患者たちが病院に来られるほど比較的体調のいいときに撮影しているものがほとんどだ。
また、全国でも珍しい開放的な診療所の「こらーる岡山」を舞台にした観察映画であり、精神障害という病気の実態を多角的に捉えているとは言い難い。おそらく患者の印象も、入院病棟の方々と比べれば大きく異なるはずだ。
観察映画だけでなくドキュメンタリーというジャンルは、ある個別の対象に密着して、その一部を切り取らざるを得ない。一方こうした問題は、声なき声の一部をすくい上げるがゆえに、それがマジョリティであると誤解を受けやすい。
観察映画は、ミクロな視点を深く掘り下げることで普遍性を獲得する方法論だ。
その可能性と限界を考えさせられる作品でもある。